渡り廊下に塗った粉で転倒

転んだのは偶然だったわけではない。鎌倉後期に成立した『五代帝王物語』には、次のように記されている。

「近習の人女房なとを倒ふして笑はせ給はんとて、弘御所に滑石の粉を板敷きに塗りをかれたりけるに、主上悪しくして御顚倒有けるを、御犬の立まはりまはり、如法に吠え参らせたりけるこそ、前表にて有りける。やがて御悩つかせ御座して、取りあへず御大事に及けり。併天魔の所為なり」(『群書類従』所収)少々難解な文章なので、わかりやすく意訳しよう。

「近習や宮廷の女房たちを転ばし、その姿を見て笑おうと、四条天皇は御所の渡り廊下にスベりやすい蠟石ろうせきの粉を塗ったところ、自分が誤ってスベって転んでしまった。これを見た犬が激しく吠えるので、倒れているところを発見され、運び込まれて床についたが、そのまま亡くなってしまった。まさに天魔の仕業しわざのようだ」

四条天皇は、随分といたずら好きな少年だったようだ。ちょっと過酷な言い方になるが、ある意味、自業自得だったといえる。ただ、まさか本人も、そんなことで死んでしまうとは夢にも思わなかったろう。

転倒による死亡事故は祟りなのか

四条天皇の不運な死は、後鳥羽ごとば上皇の怨霊おんりょうの仕業だと貴族たちは考えた。

知られているように後鳥羽上皇は、承久じょうきゅうの乱で鎌倉幕府に敗れ、隠岐おきの島(島根県)に流された人物である。

乱から19年後の延応元年(1239)に60歳の生涯を閉じたが、興味深いことに後鳥羽自身、死んだら自分は怨霊化するのではないかと危惧していた。

後鳥羽天皇像
後鳥羽天皇像(画像=小学館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

そこで遺言に「私は法華経を信仰し、成仏しようと思っている。けれど、妄念もうねんのために怨霊となったなら、世の中に災いをもたらすことがあるかもしれぬ。だが、私が生前におこなった善行をよすがに、霊を供養してくれたなら、いったん怨霊と化しても必ずしずまるだろう。

関白以下に対して、私が祟りをなすことはない。私が怨霊となって災いをもたらしているという者がいても、その言を取り上げてはならない」と記したのだ。

けれど後鳥羽死去の翌年、敵だった鎌倉幕府の重臣・三浦義村みうらよしむらが死に、さらに翌年、承久の乱で後鳥羽軍を撃破した北条時房ほうじょうときふさが死ぬ。同年、幕府が信奉する鶴岡八幡宮の神宮寺が突如、倒壊。翌年には、鎌倉に大津波が襲った。

これらは、後鳥羽の怨霊の仕業だと噂された。だから後鳥羽の死から3年後に起きた四条天皇の事故死も、やはりその祟りだとされたのだ。