持明院統と大覚寺統の「玉座」争い
後嵯峨の死後、幕府は中宮の藤原姞子に、後嵯峨の遺志を問うている。姞子が亀山のほうを寵愛していた事実を告げたので、文永11年(1274)に幕府は、亀山天皇が皇位を息子・世仁(後宇多天皇)へ譲り、院政を始めることを認めた。
すると、失望した後深草上皇が、世をはかなんで出家しようとしたのだ。噂を聞いた8代執権・北条時宗は同情したのか、後宇多天皇の皇太子に熙仁(後深草の子)をすえるよう命じた。
かくして、後深草系統も治天の君を相続できる血筋となり、以後、半世紀近くにわたって両統は天皇家の惣領権や皇室領をめぐり、水面下で激しい勢力争いを展開するようになる。後深草系統を持明院統、亀山系統を大覚寺統と呼ぶ。
後宇多の後は、熙仁親王が正応元年(1288)に即位して伏見天皇となった。
23歳であった。持明院統の名称は、この伏見天皇が持明院殿に住んでいたことに由来する。
翌年、伏見天皇の皇子・胤仁親王が皇太子となり、持明院統が優勢になった。すると大覚寺統の不満がつのり、翌正応3年(1290)3月、大覚寺統派の浅原為頼らが御所内に乱入し、伏見天皇を殺害しようとしたのだ。伏見は女装してなんとか難を逃れ、為頼らは目的を遂げられずに自害した。
伏見天皇は、永仁6年(1298)に第一皇子の胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して上皇となった。
しかしこの間、大覚寺統が巻き返しをはかり、同派の公卿(現在の閣僚)吉田定房が「後嵯峨上皇の遺志とは違う」と幕府に直訴。訴えは取り上げられ、大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子・邦治親王が皇太子となり、正安3年(1301)、即位して後二条天皇となった。
皇太子には、持明院統の富仁親王(伏見天皇の第三皇子)が擁立された。
「命を捨てるから雨を降らせてほしい」
延慶元年(1308)、後二条天皇が24歳で死去したため、持明院統の富仁親王が即位して花園天皇となった。花園はまだ12歳であったが、皇太子には大覚寺統から天皇より9歳年長の後宇多上皇の第二皇子・尊治親王が就任した。
花園天皇は歌道や学問に秀で、父の伏見上皇、続く兄の後伏見上皇が院政を敷いていたものの、自分の不徳を痛感していた。
とくに正和2年(1313)に長雨が続くと、なんと花園天皇は「自分が人びとにかわって命を捨てるから、雨を降らせてほしい」と祈願している。そういった意味では、名君といえるだろう。
文保元年(1317)、両統の確執を見かねた幕府は仲介に乗りだし、「以後は両統が十年ごとに交代で皇位につくように」と命じた(文保の和談)。これを両統迭立と呼ぶが、これにより花園天皇(持明院統)が譲位し、大覚寺統から尊治親王が即位して後醍醐天皇となった。

