養子縁組が示す、羽柴と前田の親密さ

実際、利家には寝返りを疑われてもやむを得ない事情があった。前述の『前田家譜』が書き残した「秀吉と利家の個人的なつながり」が、その事情に該当する。

具体的にいうと、羽柴・前田の両家は養子縁組していた。

利家の娘・豪が幼少の頃、当時はまだ子がいなかった秀吉・寧々夫妻の養女となった逸話は、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも描かれていたので、ご存知の方も多いだろう。

また、大河ドラマには登場していないが、秀吉は女児をもうひとり、利家から譲り受けていたという(『加賀藩史料』)。名は菊姫。利家と側室のあいだに誕生し、生まれてすぐ秀吉の養女となったと伝わっている(菊姫は天正12年に死去)。

羽柴と前田が、養子縁組を通じて親密だったのはまちがいない。こうした点をバックボーンに、賤ヶ岳で利家が秀吉の味方となるのは事前に密約があったという、通説が流布されるようになったわけだ。

賤ヶ岳の戦いの際の秀吉を描いた『月百姿 志津か嶽月』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
賤ヶ岳の戦いの際の秀吉を描いた『月百姿 志津か嶽月』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

利家は勝家の“家臣”ではない

利家はまた、柴田勝家との関係も深かった。「豊臣兄弟!」でも勝家を「親父殿」と呼んでいる。この呼称は利家の言行録『亜相公御夜話あしょうこうおんやわ』に見られるらしく、大河ドラマはこの文献をもとにしているのだろう。

「親父殿」と親しく呼ぶ間柄から、利家を勝家に従属する家臣のように考えている方もいるようだが、これが事実と異なるのは、多くの歴史研究者が指摘している。利家は天正9(1581)年、信長から直接、能登一国を与えられており、織田北国方面軍の司令官・勝家が軍事行動を起こす際は指揮下に入るケースもあっただけ――つまり勝家の臣下にあるわけではない。

  それが、正確なふたりの関係だ。適切な言葉でたとえるのは難しいが、「協力」「連合」といった間柄だろう。

一方、秀吉とのつながりは、前述の通り私的なもの――。

前田利家の立ち位置は、このように完全に勝家寄りでもない、そうかといって秀吉寄りともいえない、中間的かつ曖昧だった。逆にいえば、それゆえに土壇場までどちらに付くか態度を明確にできず、それがギリギリまで尾を引き、4月22日頃の戦況不利を見てようやく秀吉の軍勢に下った――それが実態だったのではないだろうか。