降伏か、裏切りか、仕方なかったのか
また『越登賀三州志』は、この撤収中に起きた柴田勝家と利家のやりとりを記載している。それによると――。
つまり「もうワシのことは放っておいて、秀吉のもとへ行け」と、勝家はいったというのだ。
おそらくこれは、勝家を見限ったことをカムフラージュするための創作だろう。秀吉の軍門に下ったのは勝家からしたら“裏切り”であるから、そうではなく勝家から秀吉のもとへ行けと勧められた――前田は裏切ってはいないと、強調していると思われる。
一方で4月23日、利家は勝家とお市の方が籠る北ノ庄城を囲む羽柴軍の先鋒となったと、『川角太閤記』は記す。
『川角太閤記』も“秀吉びいき”の文献で信ぴょう性に欠けるが、降伏した者を前衛に配するのは当時の軍掟としてあり得るから、この記載に関しては完全な創作ともいえない微妙な印象を抱かせる。
要するに賤ヶ岳の戦いにおける前田利家の動向は、
・「降伏なのか」
・「裏切りなのか」
・「裏切るのもやむを得なかったのか」
・「北ノ庄城攻撃の先鋒となった真偽」
等々さまざまな疑問があるものの、真相がはっきりせず、わかっているのは最終的に勝家を滅ぼすのに加担した――ということである。
裏切りは仕組まれていた?
利家は賤ヶ岳の戦い以前から、秀吉の調略を受けていたという説もある。策を弄するのが得意だった秀吉だけにあり得るだろうが、これもはっきりした証拠は残っていない。
「調略はあった説」は、勝家が和平交渉の使者として、利家を秀吉のもとへ派遣したことを根拠としている。『前田家譜』によると、利家と秀吉が個人的に懇意だったことから、使者の役目を託されたという。
この交渉は、冬に入ると雪深い越前から動けなくなることを懸念した勝家が、天正10年秋頃に画策したらしい。
だが勝家のそうした懸念を、秀吉はとっくに見抜いていた。そこで、表向きはいったん和平に応じ、同時にその場で利家を味方に引き入れるよう、巧みに説得してしまったのではないか――と、「調略はあった説」は、このような推理に基づいている。
利家の馬廻衆だった人物の覚書にも天正10年秋、出陣準備を進めていた利家が突然中止したと記されており、この時期に何らかの交渉があったことをうかがわせる。

