13年の経験と想いを胸に。新たな地で挑む「文化が香る売り場」
東京に本社がある高級路線の食品スーパーで働き始めた大野和弘さん(仮名)が、律義にも履歴書を持ってインタビューに臨んでくれた。履歴書の「志望動機」にはこう書いてある。
<旅先で貴社の元社員の方と知り合い、貴社の歴史と伝統を伺いました。その後、実際の売り場を伺い、貴社の売り場には文化の薫りが漂っていると感じました>
やや細身の色白でメガネ姿の大野さんは、東北地方出身の独身40歳。声は小さくてややなまりがある。緊張気味なのに、東京駅前のレストランでのインタビューには積極的に応じてくれた。好奇心が強くて人懐っこいタイプなのだろう。「真面目で不器用。でも、素直で不思議な可愛げがある」という第一印象を受ける。実際、いろんな人に愛されて、逆境を乗り越えて、今がある。
大野さんは食品スーパー業界で数度の転職を経ながらもある部門にほぼ一貫して携わっている。店長などを目指すジェネラリストではなく、職人肌の専門職だ。匿名性を確保するために本稿では仮に鮮魚部門とする。
父の反対を押し切り入社。食品スーパーで見つけた仕事の面白さ
大野さんは東北地方の私立大学を卒業後、地元の食品スーパーに新卒入社した。最大の理由は地元で働きたいから。2024年に急逝した母親と大手建設会社の社員だった父親は大野さんが幼い頃に離婚しているが、3歳年上の兄も含めて家族仲が良い。父親の再婚相手とその子どもたちとも親しく交流しているほどだ。
「父からは(給与水準の低い)小売業に行くなんて、と叱られました。でも、私はスーパーが好きなんです。人の日常生活が見える場所だし、知り合い同士が行き会えば井戸端会議が始まります。特に年末の忙しいときは感動しますよ。遠くに住む家族も帰ってくるからと買い物かごをいっぱいにしている人たちの姿を見ると温かい気持ちになります」
配属されたのが鮮魚部門。不器用な大野さんは仕事を覚えるのが遅くてつらい思いもしたが、自分で商品や売り場をつくって利益という名の結果につながるのが面白かった。部門チーフからアルバイトまで、みんなで一緒に考え、助け合いながら働くことも肌に合っていた。
一貫して鮮魚部門にいる大野さんは業務を一つひとつ覚え、入社6年後にチーフに抜擢される。その頃から仕事がさらに面白くなり、転職のきっかけとなる勉強会に参加するようになった。
成長を求めた大手への転職。パワハラに耐えた苦難の3年間
「あるスーパーの名物店長さんが書いているブログを愛読していました。そのコメント欄で勉強会に誘われたんです。スーパーで働く人たちが集まって、自分の取り組みを発表して意見交換をします。私よりもはるかにすごい人がいっぱいいるんだと知りました」
自分をもっと成長させたいと思った32歳の大野さんは、勉強会メンバーの中でも特に尊敬する人が在籍している大手スーパーへの転職を決意する。配属先は同じ県内の競合店だった。前職は良くも悪くものんびりした社風なので、現場の人たちは大野さんのステップアップを喜んでくれたという。大野さんの人柄がわかるエピソードである。
しかし、大野さんの挑戦は失敗に終わる。転職先でも同じく鮮魚部門だったが、「とにかく利益を上げろ」という雰囲気でサービス残業と暴言めいた説教が待っていた。
「ほぼ毎日、朝5時半から夜10時ごろまで職場にいました。でも、耐えられなかったのは労働時間ではありません。その会社はとにかく社員が下品で、機嫌が悪いとぶっきらぼうになったり悪感情を爆発させたりするのです。私もみんなの前で罵倒されたり……。パートさんはいい人が多かったので、なんとか3年間は働きました」
表情がなくなり、愚痴ばかりになっていたと振り返る大野さん。自覚症状はなかったが、父親から「お前、ウツだぞ。会社を辞めろ」と端的に指摘してもらって退職することができた。
母の突然の死。悲しみを乗り越えるため名古屋へ
意気消沈した大野さんは母親が暮らす実家に戻った。失業保険を受給しながら法律関係の資格勉強を始めたが、不合格。そして、母親が急性大動脈解離で急逝するというショッキングな出来事に遭遇する。
「朝、洗面所から大きな音がしたんです。何かが落ちたのかなと思って見に行ったら母が倒れていて……。すぐに救急車を呼びましたが、そのまま病院で亡くなってしまいました」
涙も出ないほどの悲しみだった。そして、自分がいかに精神的に母親に依存してきたのかを思い知る。地元のどこに行っても母親の影を探してしまう。このままではダメになる――。
「結婚した兄が奥さんと一緒に実家に住むことになったので、私が実家を出ることにしました」
食品スーパーの店長になることには挫折した大野さんだが、仕事以外でもう一つのロマンがあった。名古屋を拠点とするアイドルグループ「SKE48」を結成翌年からずっと応援しており、「いつか名古屋に住んでみたい」と思い続けていたのだ。近くに住んでもメンバーと個人的に親しくなりたいわけではない、と大野さんは慌てて付け加える。
「常に全力で取り組んでいる彼女たちの姿勢が好きなんです。どうなっていくのか見届けたいと思っています」
母の死で気づいた、一日一日を全うするありがたさ
転職先に選んだのは、名古屋市内の小規模な会社だった。大野さんが取得を目指していた資格を持つ社員が数名で切り盛りしており、事務職未経験だった大野さんは「何をやってもダメ出しされた」と打ち明ける。パソコンの前に長く座っていると息が詰まったと振り返る。大野さんはそもそも事務職に向いていないのだろう。わずか2カ月で見切りをつけて、愛知県内に本社がある食品スーパーの鮮魚部門での短期パート社員に転じた。
「SKEのライブには週2ペースで行けたので幸せでした。声がつぶれるまでコールをしていると嫌なことは忘れられます。ファン仲間以外にも友だちができて、このままずっと名古屋にいたいなと思っていました」
もう一つの選択肢は地元に戻ることだった。初めて東北地方を離れ、SKEの聖地である名古屋に住んだ1年あまり。大好きなメンバーを思う存分に応援し、新しい友だちもでき、過去の苦しみや悲しみを少し昇華できた。そして、父や兄の近くに帰りたいと思った。
「以前は私にも『なんともしてもこうしたい』といった要望がありました。スーパーの店長になる、とかですね。でも、母が急に亡くなるのを目の当たりにして、今日という日を生きているのも当たり前じゃないと気づいたんです。一日一日を自分の務めを果たしながら過ごせればいいのだと思うようになりました」
地元の会社で勤続20年の兄の生き方が理想だ、と大野さんは静かに話す。彼はやはり地元の取引先企業の社員とも仲良くし、学校つながりで配偶者を見つけて、実家で暮らしている。
「パート先のスーパーからも正社員になる話をいただいていました。でも、そうなると全国のどこに配属されるのかわかりません。短期パートの期間は精いっぱい働いて売り上げに貢献しつつ、転職先を探しました」
旅先で導かれたご縁。人生の節目で飛び込んだ高級スーパーの世界
名古屋に残るか、地元に帰るか。二者択一だと思っていた大野さんに意外な展開が訪れる。コーヒー好きの大野さんは名古屋市内のコーヒーショップの店主と親しくなっており、「旅をするならば伊東温泉がいいよ」と勧められた。素直に従う大野さん。電車を乗り継いで伊東に向かい、途中の沼津市内で入ったコーヒーショップでそこの店主と意気投合する。
「その方は今の勤務先の元社員さんだったのです。私もスーパー業界で長く働いていて正社員として働ける会社を探していると自己紹介したら、『僕がいた会社は長く勤めるならいい会社だよ。人柄がいい人が多いから』と教えてくれました」
ここで冒頭の履歴書に戻る。配属先はもちろん鮮魚部門。ただし、グルメな富裕層もよく訪れる店なので、魚の扱い方も切り方も今まで通りとはいかない。今年の春に上京して働き始めた大野さんはゼロから知識と技術を覚え直すつもりで仕事に臨んでいる。
「対面販売は初めてなので緊張します。お客さんを待たせちゃいけないのですが、その店の手順を確認しながらやっているので何事にも時間がかかってしまうんです。口が悪い社員さんからは『本当に経験者なの?』なんて言われることもありますが、罵倒されたりはしません。優しい人たちが『ゆっくり覚えればいいよ』とフォローしてくださるので大丈夫です」
ちなみにこのスーパーも小規模ながら全国に展開しており、今後、大野さんはどこに転勤になるのかわからない。名古屋もしくは地元に固執していた数カ月前を忘れ去ったかのように大野さんは東京で一人暮らしをしている。刺激の多い都会が性に合っているのかもしれないが、本人もまったく想定しなかった現在のはずだ。ご縁とは人知を超えたものなのかもしれない。
好きな仕事を続け、趣味も楽しむ。自分らしいキャリアの形
スーパー関係の知り合いは関東にもいて、朴訥さと人懐っこさで東京で新たな友だちもできた様子の大野さん。地元よりは名古屋に行きやすい、という地理的条件も気に入っている。
「月に1回はSKEのライブに行きたいと思っています。でも、今は無理。先輩の手順をスマホ動画で撮らせてもらったりしながら仕事を覚えるのに必死なので、今月は残念ながら名古屋に行けなさそうです」
真面目なのかそうでもないのかよくわからない発言をする大野さん。本物志向の会社との相性は良いことだけは確かで、膨大な知識と技術を蓄積することに集中できている。
「今の職場で腕を磨けば、魚を扱ういろんな店で通用すると思います。いずれ名古屋に帰れるかもしれません」
あなたの地元は名古屋じゃないぞと突っ込みを入れたくなるが、大野さんはニコニコしている。母親を見送り、行動範囲が広がり、仕事でも揺るぎない軸ができつつある彼は、どこに住んでいても家族は大事にできると感じているのかもしれない。ただし、SKEのお膝元とはできるだけ近くにいたい。
好きな仕事を続けながら趣味を追求する。そんなワガママが通用するぐらいの技術と自信を身につけることが大野さんの転職ロマンなのだと思った。