なぜ滝川一益ではなかったのか

家柄では恒興が、4人中もっとも由緒があった。摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)出身の父の池田恒利がすでに織田家に仕え、ルーツをたどれば清和源氏の3代目、源頼光にさかのぼる。また、恒興の母は信長の乳母で、夫の恒利が早く死去して以後は、信長の父・信秀の側室になっている。

要するに、恒興は2歳年長の信長とは乳兄弟で、それゆえに実績などで劣りながらも、4宿老の一人に加わった、という見方は存在する。

とはいえ、4宿老にふさわしい武将といえば、池田恒興よりは滝川一益だろう。だが一益は、天正10年(1582)年3月に武田氏が滅亡すると、上野(群馬県)や信濃(長野県)に所領を得たほか、東国の広い範囲で大名や国衆の取次を命じられ、信長の死を知っても身動きが容易でない状況だった。それでも一益は清須方面に向かい、近づいていたのだが、秀吉は一益が近くまで来ているのを知りながら、あえて到着を待たずに会議を開催した。