なぜ滝川一益ではなかったのか
家柄では恒興が、4人中もっとも由緒があった。摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)出身の父の池田恒利がすでに織田家に仕え、ルーツをたどれば清和源氏の3代目、源頼光にさかのぼる。また、恒興の母は信長の乳母で、夫の恒利が早く死去して以後は、信長の父・信秀の側室になっている。
要するに、恒興は2歳年長の信長とは乳兄弟で、それゆえに実績などで劣りながらも、4宿老の一人に加わった、という見方は存在する。
とはいえ、4宿老にふさわしい武将といえば、池田恒興よりは滝川一益だろう。だが一益は、天正10年(1582)年3月に武田氏が滅亡すると、上野(群馬県)や信濃(長野県)に所領を得たほか、東国の広い範囲で大名や国衆の取次を命じられ、信長の死を知っても身動きが容易でない状況だった。それでも一益は清須方面に向かい、近づいていたのだが、秀吉は一益が近くまで来ているのを知りながら、あえて到着を待たずに会議を開催した。
だが、滝川一益を待たずとも池田恒興がいればいい、という状況を導いたのは、ほかならぬ恒興自身だった。恒興は明智光秀の討伐に際して、秀吉に決定的なほど大きな恩を売っていたのである。
実は山崎合戦で光秀を直接破った
備中高松城(岡山市北区)を攻略中に本能寺の変の知らせを受けた羽柴秀吉は、6月4日に毛利方と和睦を結び、5日に進軍を開始。12日には摂津の池田恒興らと合流し、13日には山崎(京都府大山崎町)に布陣して、光秀の軍を破った――。これが従来の通説だが、中京大学の馬部隆弘教授が令和6年(2024)に発見した史料によれば、秀吉の軍勢は山崎合戦に間に合わなかったというのだ。
新史料は、秀吉自身が山崎合戦当日である6月13日の日中に、山崎から12キロほど離れた富田(大阪府高槻市)で書いたとされる書状で、「明日、西岡に出陣し、陣を構える」と記されていた。西岡とは勝龍寺城(京都府長岡京市)がある地域で、実際、光秀は合戦前日の12日、恒興らによってこの城に追い込まれていた。だから、秀吉は14日に勝龍寺城を攻めるつもりで「陣を構える」旨を書き送ったのだろう。
ところが予想に反して、光秀は前日の13日に勝龍寺城から撃って出た。その時点では秀吉はまだ富田にいたので、山崎で光秀の軍勢と戦ったのは池田恒興のほか、中川清秀、高山右近の摂津衆(摂津国を治める国衆)3人だったことになる。つまり光秀は、秀吉ではなく恒興らの軍勢に敗れ、坂本城(滋賀県大津市)に向かう途中に落人狩りに遭って命を落とした、というわけだ。
じつは、秀吉が山崎合戦に間に合わなかった旨は、イエズス会宣教師のルイス・フロイスが『日本史』に書いていた。そこには次のような記述が見られる。

