越前・北庄49万石を領した柴田勝家は、羽柴秀吉との戦いに敗れ、妻のお市とともに最期を迎えた。柴田家は滅亡したかに見えたが、その家名は途絶えていなかった。東京・三鷹には柴田家の墓が今も残されている。子孫はいかにして生き延びたのか。ルポライターの昼間たかしさんが、秀吉に敗れた柴田家のその後をたどる――。
柴田勝家の肖像画、桃山時代~江戸時代初期
柴田勝家の肖像画(写真=『柴田勝家』福井市歴史博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

柴田勝家の一族は生き延びていた

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。第33回「北庄城の別れ」では、ついに勝家(山口馬木也)は敗走し、市(宮﨑あおい)の待つ北庄城に籠城することに。

秀吉(池松壮亮)への降伏を進言する小一郎(仲野太賀)だが、一蹴される。こうして北庄城(現在の福井市)は炎上。柴田勝家は滅びた。

はい、ここで大河ドラマは終わる。滅亡、以上。……で終わってはいない。いや、柴田勝家個人は終わったが、柴田家そのものは終わっていないのだ。

伝承では、勝家が派手な切腹をして死んだとされているし、多くの者が殉死したとされているから「なるほど、一族郎党みんな滅びたんだな」と誤解しがちである。

でも、やっぱり生き延びている一族はいた。それも、ずっと隠れて息を潜めて暮らしていたのではない。家康に召し出された一族が、大名ばりの立派な墓を建立できるくらいには豊かな人生を送っていたのである。

勝家には、出自の怪しい庶子のほか、養子がやたら多かった。戦国武将、跡継ぎ問題は結局のところ数で殴るしかない、というのがよく分かる話である。

秀吉に抵抗もせず、城を明け渡した「勝豊」

中でも一番名前が知られているのが、姉の子・勝豊だ。養子の中でもエース格だったらしく、清須会議後には勝家が手に入れたばかりの要衝・長浜城を、いきなり任されている。城持ちである。破格の待遇と言っていい。

ところが、である。

この恩義、まったく続かなかった。勝家と秀吉の対立が表面化した1582年12月、秀吉に長浜城を囲まれると、勝豊はろくに抵抗もせず、あっさり城を明け渡した。その後は「病気療養中」を理由に京都に滞在。一方で秀吉軍には家臣を参戦させており、完全に勝家に弓をひいている。一時は、勝家の跡継ぎ候補だったにも関わらず、完全に裏切ったわけである。

裏切りの理由は諸説あるが、有力なのは「嫡子扱いだったのに、勝家に実子が生まれて急に扱いが軽くなった」というもの。ただし、これも確定した話ではない。

ただこれだけ聞くと仮病を使って逃げたように見えるが、実はそうではない。なんと勝豊は、1583年4月の賤ヶ岳の戦いを前に病死しているのである(死去は4月16日とされるから、21日の勝家敗走の数日前)。

跡継ぎとも見込まれたにも関わらず、いち早く裏切り。おまけに裏切りの報酬を得る前に病死とは、あまりにも悲惨だ。