“鬼柴田”が簡単に滅びるはずがない
墓域には、もう一つ見逃せないものがある。柴田家家碑だ。勝重から数えて10代目にあたる柴田勝房が、1796年、柴田家歴代の事跡を刻んで建てたものである。
おもしろいのは、この家碑と勝重の墓が、三鷹市指定文化財として別々に指定されている点だ。一つの墓域に、時代の異なる二つの史跡が並び立っている。勝重が死んだ時点で話が終わるのではなく、柴田家が家名を守り続けていたことの、いわば物証である。
勝家の最期のインパクトがあまりに強烈だったせいか、柴田氏はそこで滅びてしまったと勘違いされがちだ。しかし係累は、その後もずっと続いていた。2023年に営まれた勝家とお市の441回忌法要には、系譜は定かではないものの、子孫を名乗る人物が参列したと報じられている(「中日新聞」2023年4月25日付朝刊)。
勝家も養子だ何だと、あらゆる手段で一族を増やしていた戦国大名である。そう簡単に滅びるはずがなかったのだ。
“公金を私的流用”と記録が残る、最後の当主
ところで、三河に移されて以降、柴田氏は幕末まで旗本として存続している。その最後の当主にあたる柴田勝誠は、明治の新政府に出仕し、北海道の開拓使に勤めていたことが資料からわかる。
ただ、今回資料を探っていたところ、妙な記録に行き当たった。『北海道所蔵簿書件名目録 第2部 その13』(北海道総務部行政資料課、1983年)に、「等外一等出仕柴田勝誠、官金私借ノ件」という一項がある。
内容を追うと、これがなかなか身も蓋もない。開拓使の役人だった勝誠が公金を私的に流用していたことが発覚し、弁償することで話がついた。しかし、その過程で電信局修技校(汐留にあった技術者養成所)から購入した筆・墨・紙といった、事務用品の代金を未払いにしていたということも発覚したというものだ。
北ノ庄の炎を生き延び、2500石の旗本となり、大名顔負けの宝篋印塔まで建てた一族の、武士として最後の当主の事蹟が、横領と筆代の踏み倒しとはどういうことか?
柴田氏、最後まで、スケールが小さいんだか大きいんだか、よくわからない一族であった。
次回の #豊臣兄弟
— 大河ドラマ「豊臣兄弟!」日曜夜8時 (@nhk_toyotomi) August 27, 2026
市は勝家と果てる覚悟を決める
第33回「北庄(きたのしょう)城の別れ」
8月30日(日)[総合]夜8:00ほか
第32回「賤ヶ岳(しずがたけ)の決闘」
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