村の暮らしに溶け込んだ「勝家の兜」
その支配の間、勝重は、当時「勝淵明神」と呼ばれていた村の鎮守である水神社に、勝家の兜を埋めたと伝えられている。
あくまで伝承の域を出ない話ではある。とはいえ『武蔵名勝図会』には、こうある。
柴田氏此地を領せしより、先祖勝家が霊を祀り、勝家が兜を埋めしといふ、一節には水神祭りしと云ふ(東京都神社庁『東京都神社史料 第3輯』東京都神社庁、1971年)
柴田氏がこの地を治めるようになって以来、先祖・勝家の霊を祀り、その兜を埋めたのだという。一説には水神を祀っているという意味である。真偽はともかく、江戸時代にはすでにこの話が広く知られていたことは分かる。
滅ぼされた祖父の兜を、新しい所領の鎮守に埋めて祀る。北ノ庄で失った祖父を、勝重は自分の代で、今度は土地の守り神のそばで静かに蘇らせたわけだ。
実際、この神社は水の神様、お産の神様として地域の人々の崇敬を集めていたようで、戦前までは神社の境内で雨乞いも行われていたという記録が残っている(井之口章次編『三鷹の民俗 10(新川)(文化財シリーズ;第19集)』三鷹市教育委員会、1987年)。
よそから来た旗本の殿様が持ち込んだ祖父の兜もまた、いつのまにか村の暮らしに欠かせない信仰の一部となったということだろうか。北ノ庄の炎からは、ずいぶん遠いところに流れ着いたものだ。
2500石の旗本にしては“立派すぎる墓”
そして、勝重本人が眠る場所も、この仙川からそう遠くない。
寛永9年(1632年)、54歳で没した(諸説あり)勝重が葬られたのは、自らが中興開基となった春清寺である。その墓は、宝篋印塔で実際に現地を訪れると、その大きさにまず驚かされる。
台座から相輪の先端まで、目算でおよそ3メートル級。住宅街の一角にある寺の墓地で、これだけの高さの塔がぬっと立っている光景は、ちょっとした異物感がある。専門的な様式判定は素人の手に余るが、それでも笠の四隅、隅飾突起の反りがかなり大きく開いているのは見て取れる。時代が下るほどこの反りが強くなる傾向があるとされ、江戸初期という時代設定とも矛盾しない見た目ではある
(このあたりは専門家による裏付けが本来欲しいところだが、勝重の墓を直接扱った学術的な調査報告は管見の限り見当たらなかった。この評価はあくまで現地で実見した筆者の印象にとどめておく……一応、大学時代は『東大和市史』の手伝いであっちこっちで宝篋印塔の実測と拓本をやっていたので間違ってはいないと思う)。
2500石余の旗本の墓としては、率直に言って立派すぎる。宝篋印塔自体、江戸期には大名や上級旗本が格式を誇示するために選ぶ墓塔形式になっていたというから、勝重、あるいはその子孫たちは、この塔を建てることで「自分たちはただの旗本ではない」という意思表示をしていたのかもしれない。



