秀吉配下の武将に育てられた「勝重」

正直、ホントに庶子なのかも史料が曖昧だったり、パッとしない者が多い中で、江戸時代まで歴史に名を刻んでいるのが勝重である。

勝重は、勝家の養子の一人・勝政(実父は佐久間盛次)の子である。父の勝政は賤ヶ岳の戦いで討ち死にするが、まだ幼かった勝重は城を脱出。母方の祖父・日根野高吉のもとに引き取られ、育てられた。

この高吉、なかなかの人物だ。秀吉配下の武将で武勇に優れ、武具にも詳しかったことから「日根野錣」の異名を持つ。後に小田原の役で手柄を立てて諏訪に入封し、名城として知られる高島城を築いている。もっとも、領民を挑発してまで七公三民という重税を課したことでも、あまり名誉とはいえない記録を残している人物である(植村佐『諏訪高島城』日本城郭協会、1970年)。

面白いのは、ここで誰も勝重の出自を問題にしていないことだ。滅ぼされた敵将・勝家の孫を、秀吉配下の武将の家がそのまま引き取り、育てている。しかも咎められた形跡もない。「敵の血筋だから始末しろ」という発想が、少なくともこの場面には見当たらない。

「寛政重脩諸家譜」によれば、成長した勝重は、1599年に家康に召し出され上野国に2000石を与えられている。なかなかの待遇である。ただ、この召し出された理由がはっきりとはしない。「寛政重脩諸家譜」でも簡潔に召し出されたことを、記しているだけだ。ただ、家康が武田旧臣なども取りこんで家臣を拡大していたことを考えると、柴田勝家の孫を手駒として加えるのは当然だったと考えるのが自然だろう。

しかし、勝重はただ拾われただけのその他大勢にはならなかった。関ヶ原の戦い、そして大坂夏の陣では、平野口で奮戦し負傷しながらも首を二つ取る武功を挙げて武蔵国の2郡500石が加増。「寛政重脩諸家譜」によれば、知行は併せて2520石あまりになったとしている。

“並みの武士に任せられない土地”を与えられた

さて、このうち武蔵国の知行地となった仙川村で陣屋を構えたのが島屋敷と呼ばれる居館であった。この島屋敷は『新編武蔵風土記稿』では、後北条氏滅亡まで金子氏が居住していたとされている。金子氏は武蔵七党のひとつである村山氏の氏族にあたる。以降、柴田氏は「元禄の地方直し」で三河国に領地替えとなるまで当地を支配している。

ただし、この土地、知行として与えられれば満足という類の場所ではない。というのも島屋敷は、多摩川水系の仙川の水源部にあたり、古くから人が住み続けてきた土地だった。これまでの発掘調査では3万年前の石器まで見つかっており、武蔵野台地でも屈指の古さを誇る居住地であることがわかっている。以降も近世に至るまで、ほぼ途切れることなく建物跡が確認され続けている(三鷹市遺跡調査会編『島屋敷遺跡第I次発掘調査概報(三鷹市埋蔵文化財調査報告 第17集)』三鷹市遺跡調査会、1995年)。

つまり、もともと武蔵七党という独立独歩の武士団が根を張り、後北条氏の配下に入ってもなお独自色を残していた土地なのだ。そこが後北条氏の滅亡でようやく空き地になり、「はい、どうぞ」と渡された先が勝重だった。並みの武士に任せられる場所ではない。

逆に言えば、それだけの土地を任されているということ自体が、勝重に対する幕府の信頼度の高さを示している、と見ていいだろう。

柴田勝家公菩提所
筆者撮影
寺門をくぐって左手にある墓所で、柴田家の墓はひときわ目立っていた