徳川家康が今川氏の人質だった時代から40年近く仕え、徳川の軍制にも通じていた重臣・石川数正は1585年、妻子とともに突然出奔し、秀吉に臣従した。数正はなぜ主君を替えたのか。その選択は、本人と一族に何をもたらしたのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが史料から読み解く――。
(左)『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より石川伯耆守康昌(数正)・(右)徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉部分
(左)『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より石川伯耆守康昌(数正)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)・(右)徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉部分(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

秀吉と家康を取り持とうと奔走した男

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は羽柴秀吉と徳川家康の直接対決、小牧・長久手の戦い(天正12/1584年3〜11月)へ突入する。

前年(天正11/1583年)4月、北ノ庄城で柴田勝家を滅ぼした秀吉は9月から大坂城の築城を開始した。諸国の大名たちは相次いで挨拶に訪れた。

ところが怪しい動きをしているヤツがいた――徳川家康だ。家康はこの時期から、しきりに織田信長の二男・信雄と連絡を取り合っていた。信雄は柴田勝家滅亡までは秀吉と友好関係にあったが、秀吉に横暴な態度が目立ち始めたことに嫌気がさし、それと呼応して家康も、秀吉と対決する決意を固め始めていた。

このことは複数の書状から確認できる。

・天正12年2月『岩田氏覚書』/「家康は信雄のいる伊勢長島城に家臣の酒井重忠を遣いに出し、密事みつじの御旨を交わした」
・同年3月9日『北条氏直宛て家康書状』/「秀吉はほしいまま振舞ふるまいが目立つため信雄と家康が申し合わせて討ち果たす」

家康と信雄は連携し、小牧・長久手の戦いの準備を進めていたわけだ。そしてここには、家康が信を置いていた徳川宿老も関わっていたと考えられる。この宿老は外交政策の中心にいたことから、秀吉とも面識があった。賤ヶ岳の戦い直後には、家康の命で戦勝祝いの茶器を秀吉に届ける役割も果たしている(『家忠日記』)。

徳川の重鎮の突然の裏切り

石川数正いしかわかずまさ――「豊臣兄弟!」では迫田孝也さんが演じている。9月6日放送以降の数回は、数正の出番が増えるはずだ。なぜならこの男、徳川の重要人物として小牧・長久手を戦ったのち、突然妻子を伴って家康の下から出奔し、秀吉に馳せ参じてしまうからである。

数正は若き家康が今川義元の人質となっていた頃からの近侍であり、今川から独立してのちは、織田信長との同盟成立にも貢献した。政権が羽柴に移ってからは、秀吉との間を取り持つべく奔走した。

そんな重鎮が、なぜ家康を裏切ったのか? 謎に迫ってみたい。

小牧・長久手の戦いは敵味方が入り組んだ、とても複雑な戦いだ。天正12(1584)年3月6日、織田信雄が秀吉に内通していた3人の家老を殺害したのを契機に戦端が開かれ、同月中旬、信雄に味方すると思われていた池田恒興と森長可が羽柴軍に付き、徳川軍と交戦し始めた。

主戦場は東海地域だったが、両陣営それぞれに味方する諸将たちが伊勢・美濃・四国・紀伊・信濃・北陸・北関東などで武力衝突を起こし、当時の日本を二分した大規模な戦いとなった。

局地戦では勝利を収めた家康だったが、全体的には秀吉に軍配が上がった。家康は自分の実力を秀吉に認識させるまでは成しとげたものの、次第に軍勢の数や兵器・食糧の輸送に勝る秀吉に押され、講和を余儀なくされる。

「小牧長久手合戦図屏風」一隻
「小牧長久手合戦図屏風」一隻(豊田市郷土資料館所蔵)(写真=『新修豊田市史 別編 美術・工芸』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons