松本に残る統治の跡
さて、数正のその後である。
天正18(1590)年、秀吉は北条氏の小田原城を陥落させると、大名たちの領地替えを行った。家康は江戸に移封され、家康に従っていた信濃・松本(長野県)の小笠原氏も、下総の古河(茨城県)に移った。
代わって松本に入封してきたのが数正である。数正は松本藩の藩祖とされている。
石高は8万石とも10万石ともいわれるが、入封後に行った検地によると筑摩郡4万8301石、安曇郡3万2221石で、合計8万522石となっている(『長野県史 近世資料編』)。
石川氏の統治は23年続くが、その間に行った主な政策は松本城の天守造営と城下町の整備だった。
この時代の政権は豊臣だ。信濃の数正は関東の徳川に対する、備えの一角に組み入れられていた。壮大な天守はいわば豊臣に属する者の権力を示し、城下町は軍・流通ルートの拠点としての役割を持っていた。
当時の松本城には、金箔瓦が使われていたことがわかっている。いかにも秀吉の絢爛豪華な好みにならったといって良い。だが、のちに徳川の天下となると、豊臣色の強い金箔瓦は一斉に取り払われ、その一部が発掘調査で出土し当時の名残をとどめている。
外様大名と同じ理由で改易に…
石川氏は数正の子・康長のとき、大久保長安事件(慶長18/1613年)に連座したとして改易となる。子供同士が婚姻を結んだ縁戚にあったためだ。長安が佐渡金山・石見銀山などの鉱山統轄権をバックに不正に蓄財していたといわれる事件で、江戸時代初期を揺るがせた疑獄だった。
加えて石川康長には、城の普請を幕府の許可を得ずに行ったという疑惑も持たれていたようだ(『信府統記』)。
城を改修し改易された大名というと、福島正則を思い出す。迂闊にも武家諸法度に違反し、のちのお家取り潰しの原因を作った外様だ。数正の嫡男・康長の処分は武家諸法度が公布される以前だが、軽率な判断が改易の要因のひとつとなった可能性は否定できない。
数正の出奔が原因となり、石川家は後世まで目をつけられていたのかもしれない。
参考図書
・小川雄・柴裕之編著『図説 徳川家康と家臣団』(戎光祥出版、2022年)
・藤井譲治著『人物叢書新装版 徳川家康』(吉川弘文館、2020年)
・小和田哲男著『徳川家康 知られざる実像』(静岡新聞社、2022年)
・田中薫著『シリーズ藩物語 松本藩』(現代書館、2007年)
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