秀吉が突きつけた非情な条件

また、老獪な秀吉はまず織田信雄に講和を持ちかけ、信雄は単独で和議を結んでしまった。信雄が戦闘をやめてしまった以上、十分な味方を得られずに秀吉の巨大軍勢と対峙せざるを得ない。家康も和睦を望み、石川数正も後押しした。

『岩田氏覚書』に記された家康と信雄の「密事」の箇所。(強調筆者)国立公文書館デジタルアーカイブより(参照:2026年9月2日)
『岩田氏覚書』に記された家康と信雄の「密事」の箇所(※強調筆者)。国立公文書館デジタルアーカイブより(参照:2026年9月2日)

秀吉は和睦の条件として人質を要求した。人質を取る、という点から見ても、戦後処理で優位に立っていたのは秀吉だったとわかる。家康は二男の於義丸おぎまる(のちの結城秀康)を、養子という形で秀吉に差し出した。於義丸には、3人の侍者が随伴した。石川康長・勝千代の兄弟と、本多仙千代だ。前者のふたりは石川数正、後者は本多重次の子である。

ところが、これだけでは済まなかった。

翌年の天正13(1585)年、秀吉は小牧・長久手の戦いで自分に刃向かった越中の佐々成政討伐の兵をあげた(富山の役)。このとき、家康に次の要望を伝えてきた。

・佐々成政と家康がいまだに連絡を取り合っているとの報告がある。
・ついては越中に出陣するにあたり、佐々を支援しない証しとして徳川から追加の人質を取りたい(『久能山東照宮所蔵文書』)。

このことを裏づけるように、千利休も細川家の家臣・松井康之に宛てた書状に、次のように書いている。

・越中の儀については家康の家老衆から人質を出すか、または佐々成政が越中を引き渡すかに方針が決まった(『松井家譜』)。

「家康は秀吉にかなわない」と判断

家康は家臣たちを集め、対応を協議した。その結果、人質は出さないと決した。だがこの時、秀吉はすでに関白宣下(天正13年7月)を受けており、名実ともに頂点に立っていた。

石川数正が家康の下を出奔するのはこの後、天正13年11月13日のことだ。前後の出来事を考えると数正は人質を出すことに賛成――つまり秀吉に恭順の意を示すべきと考えていたが、徳川家中の大半はその意向を聞き入れず、孤立していったと推察されるのである。

徳川の老臣で、直接秀吉と接していたのは数正だった。数正は秀吉と会い、現時点では家康は秀吉にかなわない、そう判断したのではなかろうか。だが、家臣団の重鎮たちはそうは思っていなかった。家康も、自分が秀吉に劣っているなどとは、認められなかった。

歴史を概観すれば、最終的に乱世を勝ち抜いたのは徳川だ。だが天正13年の時点では、家康が天下を取るなどはまだ夢物語だった。数正はより強大な力を持った秀吉に屈し、その結果、家康から秀吉へと主君を替えたと見られる。

これも戦国を生き抜く術である。秀吉が数正に与えたのは河内国内の8万石だった。