数正の裏切りが徳川に与えた衝撃

数正の出奔理由は、他にも諸説ある。例えば――。

・数正は天正7(1579)年に家康が自害させた長男・信康の後見人を務めていた関係で、以前から家康とは不仲だった。
・秀吉と戦っても勝ち目は薄く、家臣団に主戦論を放棄させるため、あえて裏切りの汚名を着た。

など、数正に好意的な解釈を示す説である。前者の信康粛清の件では、確かに家康とすれ違いがあったかもしれない。しかし後者は、根拠が薄いように思える。実際、家康は数正出奔2日後の11月15日付で、北条氏直に次のような書状を書いている。

・数正の件は秀吉との申し合わせがあったことと思うので、くれぐれも(秀吉の裏工作には)油断しないように(『武江創業録(写)』)

数正は秀吉と内通し、裏切った――家康はそう睨み、敵意を露わにしている。

一方、11月19日、秀吉は「家康成敗」を決断する。数正の出奔は、むしろ秀吉に勢いを与えたと見て良い。秀吉は徳川が混乱するのを狙って数正を懐柔し、まんまと成功したと見るのが妥当だろう。

また、数正は徳川の軍事機密を知っていた。そんな男が秀吉に降ったとなると、極秘情報も筒抜けになったことを意味する。家康は軍政の改革にも着手しなければならなかった。

勝てる見込みが薄い戦いに、家康は追い込まれようとしていた。

天変地異が家康を救う

ところが、これが家康の悪運の強さというべきか、秀吉は家康成敗を中止せざるを得なくなる。天正13年11月29日、巨大地震が起きたためである。多くの建物倒壊を畿内に及ぼし、大量の死者を出した自然災害によって、秀吉は出陣をとりやめ、融和政策に転じた。結果的にこれが家康を救った。

天正14(1586)年正月、秀吉の和睦の使者として織田信雄がやって来た。家康は調停に応じ、秀吉に臣従することになった。

秀吉が家康を「赦免」したのはこの年の2月である。

太平記拾遺 北畠内府信雄(織田信雄)
太平記拾遺 北畠内府信雄(織田信雄)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

家康という人物はつくづく運に恵まれている。本能寺の変(天正10/1582年)の直後の「伊賀越え」もそうで、絶体絶命ともいえる危機も乗り切ってしまうのである。

「豊臣兄弟!」ではこの伊賀越えを、山道を行くと見せかけて、船を手配し海路を利用するという意外な設定に変えていた。斬新な演出ではあるが、「山越えを観たかった」という視聴者も少なくなかっただろう。