家康は官位の誘惑に負けた?

前述の家康から遠江国寺院に宛てられた文書の日付は「九月七日」、よって、三位中将の叙任(宣旨作成)は9月7日だったことがわかる。9月7日に作成された宣旨を、秀吉の使者が携えて、9月24日に家康に下した可能性がある。そうしたことから、この三位中将の叙任・宣旨発給こそ、家康が上洛を決意した一番の理由とする説だ。家康は、秀吉が斡旋した朝廷官位の「誘惑」に負けたというのだ。

この説を唱えるのが歴史学者の笠谷和比古氏(国際日本文化センター名誉教授)であり、その著書(『徳川家康』)のなかで「筆者がここで強調したいことは、家康の上洛決断が、世に言われている大政所の人質提出によってなされているのではなく、三位中将という朝廷官位の権威によって実現されていたという事実である」とまで述べられている。

豊臣秀吉の生母・なか(大政所、天瑞院)の肖像画(大徳寺所蔵)、1615年
豊臣秀吉の生母・なか(大政所、天瑞院)の肖像画(大徳寺所蔵)、1615年(写真=大徳寺蔵「大政所像」/PD-Japan/Wikimedia Commons

秀吉の母が三河に来るかも重要だった

確かに笠谷氏が主張されるように、三位中将の官位も家康にとって魅力的であったろうし、家康の上洛決断に影響を与えたものと思う。しかし、私は大政所が三河に下向してくるか否かということも、家康にとっては大きかったと推測している。10月14日に家康は浜松を立ち、上洛の途につくが、上洛を決断してから2週間以上経過している。これは上洛の準備期間でもあろうし、秀吉が大政所を真に下向させるか否かを、じっくりと家康が見ていたのではないだろうか。

実際には大政所は10月18日に岡崎に到着、家康は同月20日に岡崎を出発し、上方に向かっている。もし、この間に、秀吉が「やはり、大政所を下向させない」という判断をしていたら、おそらく、家康は上方に向かわなかったのではないか。家康の身の安全が保証されない可能性があるからである。よって、私は朝廷官位の授与と共に、やはり大政所の下向も上洛の最終決断には大きな影響を与えていると考える。