消えていない“織田家の当主の存在感”

それでも、である。信雄という男、懲りずにまた「頼れる縁故」を見つけてしまう。今度の頼み先は、従妹にあたる淀殿だ。大坂城に転がり込んだ信雄は、かつての家臣・織田有楽斎(長益)と共に、下にも置かない扱いを受けている。どう考えても、没落しそうな状況なのに、なぜか大坂城の中枢近くに居場所を確保しているのである。

前述の柴論文では、大坂天満に暮らしていた信雄はなおも権威を持っていたとしている。大坂の陣が迫った1614年には、当主の秀頼を大坂城から退去させ、信雄を大将に擁立する動きがあったこと。その秀頼から密談が持ちかけられていたことを指摘し「いまだかつての天下人織田家の当主としての存在感を持ち続けていたのである」としている。

ただし、担がれる側の信雄にその気はまるでなかった。

この時期の信雄の数少ない「実績」らしい実績といえば、裏切り者と見なされた片桐且元を逃がしたことくらいだろう。豊臣家中で家康との内通を疑われ、命の危険にさらされていた且元を、結果的に助けるというエピソードもあるが、基本的にはなにもしていない。

そして、いよいよ戦が近づくと大坂を退去し徳川に従う態度を鮮明にするとともに、京都に滞在し大坂の陣の期間を通じてまったく動かなかった。

“なにもしなかった”ことで5万石の大名に

このなにもしなかったことは、信雄にとってはプラスに作用した。家康はこの対応を褒め、1615年7月には大和宇陀郡3万石と関東の2万石、計5万石を与えている。一度は裏切った形になった相手から賞されるのだから、もはや権威というよりは人徳である。

しかし信雄は領地に赴くこともなく、京都で茶と鷹狩りに興じる一生を過ごし、1630年に死去する。

この晩年にも、信雄は「看板」の強さを見せつけている。上野国甘楽郡の小幡領に造らせた庭園、楽山園だ。現存する池泉回遊式庭園は、前田・池田ら諸大名から資金を集めた豪壮な作りである。諸大名からカネを引き出せる名前の力もすごいが、もっとすごいのは、信雄が一度もこの庭園を訪れていないことだ。完成が1621年、晩年も晩年だったとはいえ、金だけ集めて自分は行かない……これはもう、とんでもない贅沢の極みである。

思えば、信雄の生涯は「信長の息子」という看板を、どう使うかの試行錯誤の連続だった。若い頃はこの看板で天下を狙えると本気で信じていた節がある。清須会議で名代を争い、賤ヶ岳前夜には織田政権の当主として振る舞った。だが、看板だけでは政治は動かせないということを、信雄は苦い形で学び続けることになる。小牧・長久手では家康を焚きつけておきながら自分だけ講和し、改易され、関ヶ原では金の交渉に手間取っているうちに天下分け目の合戦そのものが終わっていた。

安土城織田信雄家系墓塔。(長谷川秀一邸跡)滋賀県蒲生郡安土町
安土城織田信雄家系墓塔。(長谷川秀一邸跡)滋賀県蒲生郡安土町(写真=kouko0515/PD-self/Wikimedia Commons