いきなり改易された理由は、長らく「信雄個人の資質・判断ミス」という枠組みで語られてきた。
例えば江戸時代中期の逸話集『常山紀談』では、秀吉に舞を所望された信雄が自分を侮っていると思い不吉な替え歌で唄ったために怒りをかったという、できすぎた話になっている。そこで研究者の間では、信長の息子としての利用価値の消失や警戒といった論点が示されてきた。
こうした追放の謎研究を一歩進めたのが柴裕之「織田信雄の改易と出家」(『日本歴史』859号)だ。ここで柴は、改易の原因は信雄個人の資質にではなく、豊臣大名としての織田氏に構造的に課された立場にこそ求めるべきだとしている。この時期、徳川氏の関東移封は「関東・奥両国惣無事」実現のために豊臣政権が徳川氏に課した責任の履行だった。信雄の国替も、まったく同じ構造の要求である。豊臣大名として果たすべき責任を、信雄は拒否した。それが改易の政治的背景だ、というのが柴の見立てである。
家康の尽力で半年で赦免
つまり信雄は、「わがままを言って秀吉を怒らせた暗愚な二代目」だったのではない。「豊臣政権が大名一般に求めていた構造的な要求を、たまたま拒否した一人」だったにすぎない。同じ要求を出された家康は黙って従い、関東の覇者となった。信雄は断って、改易された。両者を分けたのは器量の差というより、選択の結果である。
ところが、である。天正19年(1591年)2月、家康の尽力によって信雄は赦免され、秋田からの帰還を許される。追放からわずか半年強での帰還なのだから、いくらなんでも許されるのが早い。
同様に家康の尽力によって赦免された事例はほかにもある。仙石秀久がそれだ。九州征伐の戸次川の戦いで大敗を喫し、戦線を放棄して逃亡、讃岐10万石を没収され浪人となった。しかし、小田原征伐の報を聞くと旧臣らと共に参陣、家康の軍に「陣借り」させてもらい奮戦し、信濃小諸5万石を与えられて大名に復帰している。秀吉にとっては脅威でもある家康の取りなしというのは、もっとも有効なカードだったといえるだろう。
その後、剃髪した信雄は捨て扶持を与えられ、御伽衆として復帰することになった。

