勝久は「主家に粛清された分家の子」

ここでも、いちいち源義経が鞍馬寺にいた逸話などに触れたり、とにかくごたくが多いのが『陰徳太平記』の特徴だ。また「力量早業人を超えたり」などと、勝久が優れた人物として描かれてはいるが、あくまで視点は鹿介ら再興を願う家臣視点。どうみても、その後の上月城での切腹に向けて悲劇をよりドラマチックにするためだけに、勝久を持ち上げた記述も付け足しているようにしか読めない。

結局、残された史料などから勝久が実際にはどういう人物だったかはわからない。

そもそも、勝久自身、毛利氏に降伏した義久からすれば、一族ではあるが味方とはいえない。

というのも、勝久の家系は一族の中で新宮党と呼ばれる集団を形成していた。これは主君に仕える親衛隊的な位置づけの精鋭だったが、義久の父・晴久の代には勢力の増長が危険視され粛清されている。

この時、家臣に助けられて逃れて僧になったというのが、鹿介に迎えられるまでの勝久の人生である。つまり勝久は「主家に粛清された分家の子」である。義久からすれば、勝久は「父が消した一族の生き残り」であり、再興運動は毛利氏に与することを決めた、尼子氏の本流に対する反旗ともいえるわけだ。

『太平記英雄傳 尼子四郎勝久』 尼子勝久の錦絵
『太平記英雄傳 尼子四郎勝久』 尼子勝久の錦絵(写真=落合芳幾/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

“正統”を宣言するも、人々は毛利氏を支持したか

つまり、尼子氏の再興運動自体が一族の総意ではないのだ。義久の降伏の後に毛利氏の支配下になっても領地など利益が継続する家臣や国人は毛利氏を支持する。そこからこぼれ落ちた人たちは「尼子再興だ‼」と挙兵していたわけである。

つまり、後の時代には、滅びた主家を再興せんと三日月に祈る鹿介が感動的に描かれたが、いうなれば、こっちにも利益を寄越せという運動である。勝久の視点からすると、仏道修行に励んでいたら、突然やってきたよく知らない家臣たちが「殿様‼」というわけである。勝久が何を思ってこれに応じたのか、史料は語らない。粛清された父への復讐心か、それとも単なる成り行きか、どちらかはわからない。

こうして担ぎ出された勝久だが、繰り返されたのは一時的な城の奪還や支配、そして逃亡の繰り返しであった。これは、かつての尼子氏の支配地でも毛利氏支配による安定を求める人々のほうが、多かったからだろうか。いずれにしても、残党からのスタートゆえに善政を敷いて民心を獲得するまでは困難だったのだろう。