かつて世界シェアトップだった東芝の苦境
かつて50%を超えた日本の半導体売上高シェアは2001年には25%に凋落していた。
東芝はこの年、値動きの激しいDRAM事業の継続に音を上げていた。独シーメンスから分社化した半導体メーカー、インフィニオンテクノロジーズとDRAM部門の統合を模索したものの、交渉は決裂。結局、東芝はDRAM事業から全面的に撤退することにし、拠点工場だった米ドミニオン・セミコンダクターを米マイクロンに売却する、と決断した。
東芝はDRAMに代わって、普及しつつあったNAND型フラッシュメモリーに賭ける考えだった。東芝はこのときにマイクロンに対して、自社では今後DRAM事業をやらないと約束している。黒字のうちに事業を売るテキサス・インスツルメンツとは大違いで、東芝は1500億円もの赤字を垂れ流すなかでの売却となった。
東芝の岡村正社長は「(ITバブルが爛熟していた)2000年6月ごろまでは“いけいけどんどん”だった。2001年の需要減と価格ダウンは、まったく予想できなかった。DRAMはすっかりマネーゲームになってしまった」と言っていた。先代の西室泰三社長時代に韓国のサムスンに売却する交渉を持っていたが、踏ん切りがつかず交渉は決裂。追い込まれた末でのマイクロンへの売却だった。
465億円を投じた通産省のプロジェクト
かつて1メガDRAMで世界シェア90%を握った名門の東芝がDRAMから撤退するのは、日本の半導体産業の窮状を示す象徴的な出来事だった。DRAMは周期的に微細化が進み、処理能力が増大するので、先端技術革新の牽引役、いわば「テクノロジー・ドライバー」と考えられてきた。東芝はその競争から脱落することになった。
通商産業省はようやく巻き返しを図ろうと、産官学で先端半導体を開発するプロジェクトを相次いで始動させた。
一つが微細化を進める「MIRAI(みらい)」プロジェクトである。日本の半導体産業の技術革新の推進役はDRAMだったが、NECと日立が本体からDRAM部門を切り離してエルピーダを設立したうえ、東芝や富士通、沖電気が相次いでDRAM製造から撤退し、主導するプレーヤーが手薄になった。その代わりに通産省が主導してオールジャパンでテクノロジー・ドライバー役を担おうと考えた。
当時130~180ナノメートルが一般的だった半導体の製造プロセスを2003年度には70ナノ、さらに2007年度には50ナノ以下にまで微細化するという目標を掲げ、日立やNEC、東芝など大手半導体メーカーや東京エレクトロン、ニコンなど製造装置メーカー、それに東大や東北大、東京工業大などアカデミズムが参画。通産省の補助金など2001~10年度までに総額465億円の資金が投じられた。

