「秀吉の麾下に入る」という屈辱

次に、小和田氏は、光秀が秀吉との出世競争を意識していたと指摘する。

天正9年(1581)2月、京都で正親町天皇を迎えて馬揃えを挙行した際、準備を担当したのは光秀だった。

小和田氏は秀吉が中国攻めに出陣中だったので、光秀に役が回ってきたが、もし秀吉が出陣していなければ、準備を担当していた可能性を示唆する。

それほど2人の実力は拮抗していたというが、馬揃えの担当を秀吉が担当するという予想は単なる憶測にすぎず、明確な根拠はない。

天正10年(1582)5月、信長は光秀に出陣の命令をした(『信長公記』)。当時、秀吉は備中高松城(岡山市)を水攻めにしており、攻防は最終局面を迎えていた。

光秀は信長の命により、ほかの諸将とともに、秀吉の援軍として出陣するよう命じられたのである。

この点について小和田氏は『明智軍記』の記述をもとにして、次のように指摘する。

光秀が備中国に出陣することは、そのまま秀吉の麾下きかに入ることを意味する。

ここまで光秀は「秀吉に勝った」と思っていたが、ここにきて「秀吉に負けた」ことを強く意識することになった。

落合芳幾作「太平記英勇伝二十七:明智日向守光秀」
落合芳幾作「太平記英勇伝二十七:明智日向守光秀」(写真=東京都立図書館/PD-Japan/Wikimedia Commons

「近畿管領」から地方へ左遷された

こうした光秀の思いは、のちに本能寺の変を引き起こす副次的な理由になったと小和田氏は述べる。

小和田氏は信長が光秀に出雲・石見の2カ国を与え、代わりに丹波と近江国志賀郡を召し上げるという『明智軍記』の記述を取り上げ、光秀は信長の意向を聞いて大いに落胆したという。

光秀の配置転換は本能寺の変の怨恨説につながったのだが、小和田氏は怨恨説を否定するのだから矛盾する。

小和田氏は、さらに次のようにも述べる。

光秀が2カ国の大名になるのは、形の上では栄転である。しかし、石見、出雲は京都から遠く離れており、「近畿管領」として政権の中枢にいた光秀にとっては、左遷だったという。

つまり、光秀は日の当たる栄光の座から引きずり降ろされ、しかも秀吉の応援に向かわされたのだから、その処遇に不満を持ったということになろう。

『明智軍記』は史料として質が劣るものであり、小和田氏もその点を熟知しているはずである。その記述内容を否定的に捉える一方で、肯定的にも捉えるというダブル・スタンダードというスタンスを取っている。