なぜ光秀だけ恩賞がなかったのか
同年3月、信忠の軍勢は天目山(山梨県甲州市)で勝頼を死に追いやり、武田氏は滅亡した。軍功を挙げた滝川一益は、上野国と信濃国(小県、佐久両郡)を与えられ、「関東管領」というべき地位に躍進した。
同年4月、光秀は甲斐から帰還したが、まったく恩賞を与えられなかったのである。
当時の光秀の心境について、光秀が信長に同道したことは「近畿管領」として当然の職務としつつも、その心中は穏やかでなかっただろうと小和田哲男氏は指摘する(『明智光秀 つくられた「謀反人」』PHP新書、1998年)。
その理由は、光秀が武田氏との戦いでまったく期待されず、戦功を挙げる可能性がない出陣だったからだという。
しかし、光秀は信長に随行しただけであり、戦闘に加わっていなかったのだから、それは当然のことだろう。
一方で、光秀より格下の一益が勝頼の首を取る軍功を挙げ、「関東管領」になったことは、光秀を大いに焦らせたと小和田氏は指摘する。
光秀が甲斐で戦闘に加わらなかったことは、信長に対する不満あるいは不安を生じさせたのである。
光秀が戦闘に参加しなかった理由
結果、一連の出来事が、本能寺の変につながったということになろう。この見解については、いささか疑問が残る。
先述のとおり、光秀は戦闘に加わるため甲斐国に向かったのではなく、単に信長に同行しただけである。光秀は合戦に出陣し、軍功を挙げていないのだから、恩賞がなかったのは当然のことである。
一益は武田氏討伐で軍功を挙げたのだから、相応の恩賞を授かったのも当然といえよう。
信長の配下の者には役割分担があり、すべての家臣に武田氏討伐を命じるわけにはいかなかった。
当時、光秀は本拠の近江や丹波を含めた、畿内を中心としたエリアが活躍の場だったので、信長は光秀に出陣を命じなかったと考えられる。
光秀が武田氏討伐に出陣しなかったのは、自分の持ち場ではなかったからだろう。
一方で、光秀が信長に同道したことは、2人の良好な関係を意味していると推測される。信長が光秀を嫌っていたら、同道させなかったに違いない。したがって、武田氏滅亡の一件で光秀が後れを取り、大きな不安を抱いたと考える必要はない。
