なぜ光秀だけ恩賞がなかったのか
同年3月、信忠の軍勢は天目山(山梨県甲州市)で勝頼を死に追いやり、武田氏は滅亡した。軍功を挙げた滝川一益は、上野国と信濃国(小県、佐久両郡)を与えられ、「関東管領」というべき地位に躍進した。
同年4月、光秀は甲斐から帰還したが、まったく恩賞を与えられなかったのである。
当時の光秀の心境について、光秀が信長に同道したことは「近畿管領」として当然の職務としつつも、その心中は穏やかでなかっただろうと小和田哲男氏は指摘する(『明智光秀 つくられた「謀反人」』PHP新書、1998年)。
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