明智光秀が起こした「本能寺の変」は、近年“綿密な計画”だったとする説が語られている。本当にそうだったのだろうか。歴史学者の渡邊大門さんは「史料を読み解くと、光秀に襲撃の緻密な計画もなければ、その後の展望も政権構想もなかったのではないか」という――。(第2回)

※本稿は、渡邊大門『論争 本能寺の変』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

小国政(歌川国政 5代目)「東錦改画の魁 小栗栖の露」。明智光秀の最期が描かれている
小国政(歌川国政 5代目)「東錦改画の魁 小栗栖の露」。明智光秀の最期が描かれている(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「6月2日」という決行日の謎を解く

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が勃発した。

明智光秀がこの日を選んだ理由は、今のところ明確ではない。

光秀がこの日になって、急に信長を討とうと思い立ったとは思えず、前々からチャンスをうかがっていたのは間違いないだろう。

そして、日頃から信長の動きを探っていたと推測される。

信長が上洛し、本能寺に入ったのは5月29日であり、しかもわずかな手勢しか率いていなかった。

この千載一遇のチャンスを逃すことなく、光秀は信長討ちを決断したと考えられる。

上の見解に異議を唱えたのは、藤田達生氏である(『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』小学館、2019年)。藤田氏は「自家の滅亡につながるような重大な意思決定が、主君のとっさの判断でできるとでも考えているのであろうか」と批判する。

藤田氏は「光秀が好機を逃さず行動に移した」という見解を否定し、あくまで6月2日である理由があったと指摘する。以下、藤田氏の見解を取り上げ、検討することにしよう。