計画性があるにしては杜撰すぎる
たしかに、信長が征夷大将軍になれば、義昭にはダメージが大きかったかもしれないが、変以前に光秀と義昭がつながっていたという確証はない。
それは、信長が征夷大将軍に任官する気持ちがあったこと、6月2日に一大儀式が催される予定があったことも同じである。
あくまで想像の話である。
したがって、藤田氏の2つの説は、成り立たないと考える。
光秀には信長襲撃の緻密な計画もなければ、その後の展望も政権構想もなかった。
ただ、変以前から信長を討とうとしたのは、疑いの余地がない。
光秀はチャンスを虎視眈々とうかがい、信長がわずかな手勢で本能寺に泊まったことを知り、急いで実行に移したのである。
光秀は信長を討つことに成功したものの、細川幽斎・忠興父子、筒井順慶らに味方になることを拒否された。
長宗我部元親については、先述のとおりである。
計画性があるにしては、杜撰といわざるをえない。
なぜ義昭と毛利は即座に動かなかったか
結局、光秀は十分に態勢を整えることができないまま、秀吉との戦いに臨んだ(山崎の戦い)。
結果は周知のとおりで、光秀は大惨敗を喫して討たれたのである。
光秀が信長の征夷大将軍への就任を阻止すべく襲撃したという点に関しては、私は変以前に光秀と義昭が通じていなかったと考えているので、賛意を示すことはできない。
そもそも光秀と義昭が通じていたならば、信長が討たれたあと、なぜ義昭が毛利氏ら反信長勢力を率いて、即座に上洛しなかったのか疑問である。
結局、毛利氏らは義昭のたび重なる上洛要請にもかかわらず、ついに応じなかった。
光秀が義昭と通じていたとするならば、なぜ毛利氏はその事実を知らなかったのか疑問が残る。
それどころか、毛利氏は本能寺の変後の正しい状況すら、十分に把握していなかったのである(谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館、2007年)。
今、残っている史料からは、藤田氏の指摘に首肯することはできず、光秀に計画性があったとは思えないのである。
それは、変の決行日が6月2日でなければならなかったという点も同じことで、まったく従うことができない。


