上洛中にあり得た征夷大将軍任官
藤田氏は、光秀が6月2日に挙兵した2つ目の理由として、信長の征夷大将軍への任官を阻止するためだったと述べる。
以下、藤田氏の指摘を検討しよう。
朝廷は信長に対し、三職(関白、太政大臣、征夷大将軍)のうち征夷大将軍を与える意向を示した。
藤田氏は、信長が上洛中の6月2日から出陣予定の6月4日の間に回答する可能性があったと指摘する。
光秀は近衛前久などから、その情報を知らされており、信長の意志がどこにあるのか正確に理解していたという。
そこで、義昭の陣営に属していた光秀は、信長に征夷大将軍を受ける意思表示をさせないため、6月2日にクーデターを決行したと指摘する。
なお、光秀が義昭の陣営に属していたというのは、藤田氏の説である。
そして、6月2日には徳川家康らの臨席のもと、信長は一大儀式を挙行する可能性があったという。
一大儀式というのは、征夷大将軍に就任する際の儀式だろうか。
信長が征夷大将軍を受けると、義昭は解任されてしまう。そうなると、義昭方の毛利氏や長宗我部氏ら中国四国の諸大名は正統性が失われて瓦解し、信長方が有利になると、藤田氏は述べる。
有力家臣が不在「一大儀式」の矛盾
はたして、この見解を妥当なものとして認めてよいのだろうか。
朝廷が信長に征夷大将軍を与える意向があったのは事実であるが、信長に回答する意思があったのか否かは不明である。
結局、信長は回答しなかった(あるいは回答した記録が残らなかった)。
光秀が近衛前久などから、その情報を知らされたとか、光秀が信長の考えを知っていたというのは史料的な裏付けはなく、藤田氏の想像に過ぎない。
それは、6月2日に一大儀式を挙行する予定だったというのも同じことである。
本能寺の変の時点において、子の信忠が上洛しており、徳川家康も京都に来る予定だった。
ところが、重臣の羽柴秀吉、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀らは、それぞれの任地で反信長勢力と戦っていたので、儀式に参加するのは不可能だった。
儀式を挙行するならば、有力な家臣が参列しないと意味がないのではないか。一大儀式というにもかかわらず、「兼見卿記」といった公家の日記にすら、そういう計画があったとは書かれていない。

