NHK大河「豊臣兄弟!」では、豊臣秀吉・秀長兄弟の活躍が描かれている。だが織田家中には兄弟と出世争いを演じ、歴史の表舞台に現れてからわずか10年で34万石の大大名に上り詰めた武将がいた。比叡山焼き討ちで活躍したとされる「よそ者武将」の実像を、江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
『絵本太閤記』の比叡山焼き討ち。国文学研究資料館所蔵/国書データベース
『絵本太閤記』の比叡山焼き討ち。国文学研究資料館所蔵/国書データベース

比叡山焼き討ちの“真の中心人物”

織田信長の配下にあった有力武将が、元亀2年(1571)9月2日付で出した書状が残っている。宛先は近江(滋賀県)雄琴の土豪・和田秀純わだひでずみ

和田は前年まで浅井長政に従い、信長と対立していた。しかし元亀2年に入ると浅井から離脱し、織田方につくことを決意する。書状の最初のほうは、そのことに対し感謝の意を述べる内容だった。

ところが後半になると、物騒な文言が並び始める。

「仰木のことはぜひともなでぎり(なで斬り)につかまつる」
「(信長は)志村城をひしころし(干し殺し)にした」

書状の差し出し人は、明智光秀である。彼は「仰木」(仰木は比叡山三塔の一つである横川中堂の麓の場所)の人々を、「なで斬りにする(殲滅する)」と書いている。

また「志村城」(滋賀県東近江市)は、信長に敵対していた本願寺一向宗が籠もっていた城で、直前に織田軍が兵糧攻めで落とし、数百に及ぶ首級をあげていた。書状は信長に従わない「仰木」も、「志村城」と同じ運命をたどるだろうと、示唆している。

光秀がこの書状を書いた10日後の9月12日、世に名高い「比叡山焼き討ち」が断行された。書状との関連から、焼き討ちの中心にいたのは光秀その人ではなかったかと、有力視されるようになった。

さらにその功績によって、光秀は織田譜代家臣ではない“よそ者”であるにもかかわらず、異例の出世を遂げたと考えられる。

明智光秀にとって、比叡山焼き討ちは大きな転機だった。

『太平記英勇伝 二十七 明智日向守光秀』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『太平記英勇伝 二十七 明智日向守光秀』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

山が燃え、3000〜4000人が斬られた地獄の1日

比叡山焼き討ちについて、『信長公記』はこう書き残している。

「諸隊の兵は、四方からときの声をあげて攻め上った。僧・俗・児童・学僧・上人すべての首を切り、信長の検分に供した。一人残らず首を打ち落とし、哀れにも数千の死体が転がり、目も当てられぬ有様だった」(『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)より抜粋)

この言葉通りなら、まさに地獄絵図だった。京の公卿・山科言継やましなときつぐも、日記『言継卿記』九月十二日条に記す。

「織田弾正忠(信長)、夜明け前より放火、次に日吉社(比叡山の麓にある日吉大社)、山上東塔、西塔、無動寺残らず放火、山衆ことごとく討ち死に。僧俗男女三四千人切り捨て仏法破滅、王法いかにあるべきや」

言継は3000〜4000という数をあげているが、実際には不明で、後世伝わるような広い範囲での焼き討ちや大量殺戮は、誇張が過ぎるのではないかとの見方もある。しかし「王法いかにあるべきや」とは、仏法を守護し国を統治するあり方が失われてしまったということを指しており、信長=仏への反逆者と見られていたのは確かなようだ。