一夜にして“よそ者”が信長の右腕になった
だが、「誰が直接手を下したか」については、何も書かれていない。冒頭の光秀の書状は、その誰かが光秀だった可能性をほのめかしている。一方、秀吉・秀長の豊臣兄弟が関わったことを示す史料はない。
この前年の元亀元年(1570)8月、信長と熾烈な戦いの渦中にあった浅井長政・朝倉義景の軍勢が比叡山に逃げ込み、立て籠もると、延暦寺はあからさまに信長に敵対する姿勢を見せ、浅井・朝倉を支援した(志賀の陣)。
このときは正親町天皇の調停によって和睦したが、信長が「(今後は)中立を保ってほしい」と要請したにもかかわらず、以降も比叡山は信長への敵意を崩そうとしなかった。
信長は比叡山を攻撃する準備を着々と進めた。
光秀はこの間、宇佐山城(滋賀県大津市)にあって西近江の橋頭堡として奮闘し、前述の和田秀純らの調略にあたっていた。その結果、織田に味方した者には書状で丁寧に謝意を表し、その一方で「信長は逆らう者には容赦しない」と脅してもいる。飴と鞭の使い分けが巧みだったと察せられる。
そして焼き討ちの後、光秀は京にある比叡山領を管理し、志賀郡(現在の大津市に相当するエリア)も与えられた。戦後処理を任されたといえる。
光秀はまた、琵琶湖西岸に坂本城を築くことも許された。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』で、坂本城を「安土城に次ぐ壮麗な城」と評している。
義昭を見限り、信長に賭けた
「頼りになる存在」との評価を、信長から勝ちとった光秀だったが、逆にこれまで帰属していた幕府15代将軍・足利義昭との関係には、亀裂が生じ始めた。
その原因は、光秀が比叡山領の支配権を強めていくことに、義昭が不快感を示したからだという。こうしたこともあって元亀2年(1571)、光秀は義昭の側近・曽我助乗に、
「義昭の家臣としての自分の行く末には、見込みが立たない。それゆえ暇をもらって剃髪したい。ついては義昭に取りなしてほしい」
と、依頼する書状を出している。(『神田孝平氏所蔵文書』)。
もちろん出家するつもりなどなかっただろう。義昭の下から離れたいという方便として、「剃髪」という言葉を使っただけで、実際、光秀は坂本城の築城に始まり、浅井・朝倉・六角との戦いなど、この後も多忙を極めている。
また「暇をもらいたい」の申し出もすぐには認められず、義昭との関係はしばらく維持された。ようやく決別できたのは元亀4年(1573)だった。この年の2月頃、信長と義昭の対立が決定的となり、7月に義昭が京から追放される。その際、光秀は信長方についている。
光秀は義昭を見限り、信長に賭けた。

