よそ者ゆえの成果第一主義
光秀の前半生は謎ばかりだ。一説には美濃国(岐阜県)の守護・土岐氏の血を引く土岐明智氏の出身で、斎藤道三の家臣だったが、道三と息子の斎藤義龍が争った際に道三方について敗北したため牢人となり、越前の朝倉義景のもとに身を寄せた。そこで、同じく義景を頼って越前にやって来た足利義昭に出会い、仕えたという。
令和2年(2020)のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」及び「豊臣兄弟!」は、この説を採用している。
しかし、実際に光秀が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、信長が義昭を奉じて上洛する永禄11年頃(1568)からで、そうした意味で言えば、わずか10年足らずで織田の重鎮になるという、ハイスピードの出世をなし遂げたことになる。
成功の要因は、これまで見てきた通り全身全霊、粉骨砕身、信長に尽くして結果を出したからといってよい。ストレスも並大抵ではなかったはずだが、プレッシャーを跳ね返し、信長の期待に応えた。出自もはっきりしない者が織田政権下で台頭するには、成果第一主義に徹する他なかったのだろう。
そうした立場は、豊臣秀吉・秀長の兄弟に似ている。秀吉と光秀は、出世を競うライバル関係にあったと見ることもできる。
万能型のハイスペック中途採用者
それに加えて光秀は、坂本城や亀山城で駆使した築城術や、苦労しつつも丹波を平定した軍事力と外交力、さらに義昭の側近だったことから教養も備えており、それが京の行政面の運営にも役立ったと考えられる。
ひと口にいえばハイスペックな人材――そう思ってよいのではないだろうか。
現代にたとえれば、織田という新興勢力に加わった中途採用者といえよう。しかも信長は志も要求も高く、誰でも家臣が務まるような男ではない。そこに光秀は実直に従事し、結果を出し続けた。そんな有能な人物だからこそ、出世できた。
もっとも、これは推測の域を出ないが、こうした過酷な環境の中で積み重ねられた負荷が、後年の光秀の叛逆的な行動に影響を与えた可能性も、否定できない。光秀は心中に、次第に刃を抱え始めていた。
本能寺の変に走ったのは、34万石を賜った3年後だった。
参考文献
・柴裕之『図説 明智光秀』(戎光祥出版、2018年)
・和田光生『比叡山焼き討ちと天正の復興〜明智光秀の果たした役割』(成安造形大学附属近江学研究所紀要第11号、2021年)


