秀吉の寵臣たちが散るなか、高虎だけが残った
藤堂高虎は、歴史ファンの間でとても人気のある武将だ。その理由は主に「築城の名人」だったことにある。
宇和島城・今治城・伊賀上野城など、高虎が築城に関与した城は壮大な石垣で知られ、また津城の多聞櫓(石垣の上に建った長屋状の櫓)、丹波亀山城の層塔型天守(塔を積み上げた高層天守)の素晴らしさは伝説である(多聞櫓と層塔型天守はともに明治時代に解体されたが、古写真が現存する)。
だが、高虎がこれらの城の建設・修築に関与したのは豊臣秀吉・秀長の兄弟が死去した後だった。現在放送中のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」より後の時代である。
そもそも高虎は、豊臣秀長の家臣となったことで歴史の表舞台に登場し、才能を開花させた男だった。秀長に出会う以前は、仕えていた家中でさまざまな騒動を起こしては出奔、あるいは追い出され、そのたびに主君を替えるという変節を繰り返した問題児だった。
そのトラブルメーカーが、秀長という人物との邂逅によって頭角を現し、過酷な戦国時代から家康・秀忠2代にわたる徳川幕府黎明期を生き抜いたのだから、人の巡り会いは本当に不思議だ。
現代では非常に知名度の高い戦国武将であり、ファンも多い。「豊臣兄弟!」でもキーマンの1人と目されている。
高虎とは何者なのか。石田三成や加藤清正、福島正則ら秀吉に愛された武将たちが次々と挫折・失脚し、さらに豊臣まで滅亡するなか、なぜ高虎が基礎を築いた藤堂家は幕末まで安定した藩であり得たのか――。
築城名人の過去は「問題児」
藤堂高虎の出自は、実は曖昧だ。通説では弘治2(1556)年、近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)の生まれで、父は虎高といい、近江浅井氏に仕えていた。虎高は藤堂家に婿養子として入った人物で、妻は浅井家の幼女となって虎高と結婚したと伝わる(高虎関連史料『高山公実録』『老臣書上』より)。
高虎は次男だった。のちに藤堂家に仕えた玉置之長という人物が残した『玉置覚書』によると、乳母1人の授乳では足りず2人を加えたが、それでも不十分だったため、家臣の妻たちからも乳をもらうほどの大食漢だったという。おまけに泣き声は大きく、行いは乱暴。成人してからの身長は六尺二寸(約190cm)だったという。
永禄12(1569)年、織田信長が伊勢に侵攻する際に起きた大河内城の戦いで、高虎の兄が戦死する。主君の浅井が織田と同盟を結んでいたため、援軍として赴いた戦いだったという。これによって、次男の高虎が藤堂家の家督を継承することになった。
「豊臣兄弟!」4月12日放送回で、浅井長政の寝返りによって織田信長が窮地に陥る「金ヶ崎の退き口」が描かれるが、このとき高虎は浅井に仕えており、織田・浅井同盟が破綻したのちも浅井方として、姉川の戦い(元亀元/1570年)などで活躍した。
元亀元年の高虎は15歳。初陣だった可能性もある。
元亀3(1572)年、17歳だった高虎は浅井家中で山下某という者とトラブルを起こし、斬り殺してしまう。何が原因で揉めたかは不明だか、家臣同士の刃傷沙汰はご法度だった。高虎は出奔し、浅井家臣の阿閉貞征の下に身を寄せた。「ろう人分」、つまり正規の家臣ではなく牢人として雇われたという。
こうして高虎は浅井の家来ではなくなった。

