手を出すのも早く、主君を見限るのも早い
高虎は阿閉の下でもまた2人を斬り殺し、退去せざるを得なくなった。天正元年(1573)のことだった。理由はまたもや不明だが、喧嘩になると即座に相手に斬りかかる凶暴な資質が見て取れる。
若気の至りで済む問題ではないだろう。今風にいえば「キレる若者」とでもいおうか。ヤバい奴に他ならない。
次に高虎が頼ったのは元浅井重臣の磯野員昌だった。磯野は元亀2(1571)年、浅井方として信長と8カ月に及ぶ戦いの末に降伏し、織田に服属して近江国高島郡(滋賀県高島市)を与えられていた。そこに高虎が転がり込んだ。
推測に過ぎないが、この時点で高虎には、織田と浅井の戦いの行く末が見えており、浅井から織田へ鞍替えしたと見ることもできる。磯野もまた、織田家中の新参者として、武勇に長けた高虎のような人材が必要だったのかもしれない。双方の思惑が合致したのではないだろうか。
高虎が磯野の配下にいた天正元年9月、浅井長政が自刃し、浅井氏は滅びた。結果から見れば、高虎が磯野に仕えたのは生き残るうえで正しい選択だった。
高虎の才能を見抜いた秀長
天正2(1574)年になると、磯野の元に信長が自分の甥(弟・信勝の子)である信重を養子に送り込んできた。この養子が、のちの津田信澄である。
ところが、高虎はまたしても信澄の下を出てしまう。理由は「納得できないことがあった」(『高山公実録』)から。「豊臣兄弟!」の時代考証を務める歴史学者の黒田基樹氏は『藤堂家覚書』に、当時80石の知行だった高虎が「加増してくれるよう信重に要請したものの、できないと返答され、それを受けて退去」と書かれている点を指摘している。
それに対して、300石を持って高虎を召し抱えたのが、羽柴秀長だった。天正4(1576)年のことだった。高虎の力を高く評価し、信重の4倍近い禄で遇したわけだ。
とはいえ、高虎の前主君・信重は信長の甥、すなわち織田一門である。兄の秀吉が織田の重鎮に成長していたとはいえ、一門衆とは身分に格差もあった。その垣根を越えて高虎をいわば“引き抜いた”のだから、秀長の剛腕ぶりは際立っていよう。
高虎にとっても、ようやく(この時点での)“安住の地”を見つけた思いだったかもしれない。実際には秀吉・秀長の死後、高虎はまたもや主君を徳川に鞍替えするのだが、それは先の話だ。

