槍から城へ才能を広げた豊臣時代

秀長が高虎を召し抱えた理由は何だったのだろうか。やはり高虎の武勇、つまり戦場での槍働きに期待してのことだったと思われる。

事実、高虎は天正8(1580)年頃から羽柴軍の三木城攻めで戦功をあげ、続いて鳥取城攻略では先陣を務めている。

そして運命の本能寺の変(天正10/1582年)を経て、山崎(対明智光秀)、賤ヶ岳(対柴田勝家)、小牧・長久手(対徳川家康・織田信雄)、紀州征伐(対雑賀衆)の各合戦に従軍し、着々と地位を高めていった。

紀州征伐に勝ったことで秀長が紀伊を統治すると、粉河こかわ(和歌山県紀の川市)に1万石を拝領した。

高虎が普請奉行を命じられ、猿岡山さるおかやま城の改修や和歌山城の築城に関わったのは、この時期である。和歌山城は高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といわれているが、どの程度関与したのか、正確にはわかっていない。

桜と和歌山城 2016年4月2日
桜と和歌山城 2016年4月2日(写真=Hiroaki Kaneko/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

また、豊臣政権下では京・聚楽第じゅらくていの内にあった徳川家康の屋敷を建設する際、渡された縄張のままでは警備上に難点があるとして、自費で門の造営を差配したという。このことに家康が感謝し、後々まで高虎を信頼したと伝わっている。

この他にも大和郡山城の拡充や、建築用の木材を熊野の山中から調達する仕組み作りなどに関与した、といわれている。

そうだとしたら、のちに「築城名人」と呼ばれる萌芽をこの時代に培った、と考えても良いように思う。

戦場の外でも強かった

豊臣政権下の高虎に目立つのは、築城より外交手腕だろう。例えば前述の聚楽第の件も、家康との外交の一環といえる。

家康との外交でいうと、小牧・長久手の戦いで和平交渉がまとまった際、次の重要な案件は、家康が羽柴に差し出す人質だった。この人質交渉の調整役を担ったのが高虎ではなかったかと、戦国史研究家の諏訪勝則氏が述べている。なお、このときの人質が結城秀康である。

また天正13(1586)年、秀長は秀吉の命の下、四国の長宗我部元親ちょうそかべもとちかを攻めた。元親がこの戦いに降伏したのが同年7月。和平交渉は蜂須賀正勝はちすかまさかつが担当したという説があるが、黒田基樹氏は高虎も関与していた可能性を指摘している。

というのも、このとき秀吉が秀長に宛てた長宗我部の処遇を記す覚書が、『藤堂文書』として藤堂家に残っているからだ。黒田氏はこのことを、覚書の条件を元親にのませたのが高虎だったからではないかと考えている。

とするなら、高虎は高度な政治交渉術も兼ね備えていたことになるだろう。

このように高虎は若い頃は血気盛んで、ともすれば即座に相手を斬り殺す無謀な行為も辞さなかったが、秀長との出会いによって居場所を見つけると、次第に軍事一辺倒から外交や、対人折衝へも才能を発揮しはじめ、同時に築城術にも磨きをかけていったとわかる。