信頼の証「丹波攻略」は難航を極めた

その後の光秀は、信長家臣団のなかでも大車輪といえる存在感を示した。まず、京都所司代の村井貞勝と共に、代官として京の行政を担った。

次いで天正3年(1575)からは、丹波(京都府中部及び兵庫県北東部など)の攻略を命じられた。柴田勝家の北陸方面軍、羽柴秀吉の中国方面軍、滝川一益の関東方面軍と並び立つ畿内(丹波)方面軍の司令官、それが光秀だった。

この頃の光秀を信長がどれだけ信頼していたかは、下記からも理解できる。

同年6月7日付け、丹波の国衆である川勝継氏かわかつつぐうじ宛て信長書状――。

「光秀を丹波に遣わすので忠節を尽くすように」

同年7月、信長の斡旋によって「日向守ひゅうがのかみ」を叙任。「惟任これとう日向守」と名乗るようになる。

ただし丹波の攻略は、八上城(兵庫県丹波篠山市)の城主・波多野秀治はたのひではるの造反や、各地の領主たちが中国の毛利と手を結ぶなど、かなりの苦戦を強いられた。

こうしたことを背景に、後世には波多野氏に人質として差し出した光秀の母が、はりつけに処されたという逸話まで流布した。磔は史実とは言い難いが、それだけ丹波攻めは難航したのである。

兵庫県丹波篠山市、高城山にある八上城跡の「はりつけ松跡」
光秀の母を磔にしたという「伝はりつけ松跡」(写真=Mass Ave 975/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

激動の4年を経て、異例の出世

その合間の天正4年(1576)には大坂本願寺攻めにも参陣し、5月7日には天王寺砦(大阪市天王寺区)にいたところを本願寺勢に包囲され、援軍が駆けつけたことによって危機を脱している。

同年5月23日には病のため一時的に戦線を離脱。11月には妻の煕子が死去するなど、厳しい日々は続いた。

・天正5年(1577)10月、松永久秀との信貴山城の戦いに参陣
・天正6年(1578)10月、信長に背いた荒木村重を攻めるため、摂津・有岡城の戦いに参陣
・天正6年、丹波攻略の拠点として亀山城(京都府亀岡市)を築城

働き詰めである。

光秀が丹波を平定するのは、天正7年(1579)8月だった。4年の歳月を要した。同年10月、安土城に赴いた光秀を、信長は感状を出して称賛し、丹波・丹後の両国を与えた。この結果、光秀は計34万石を領する織田家の重鎮へと、のし上がった。