なぜ明智光秀は主君である織田信長を裏切ったのか。現代になっても、その動機をめぐっていまだに議論が交わされている。作家・海音寺潮五郎さんの著書『武将列伝 戦国爛熟篇』(朝日文庫)より、光秀の性格に着目した分析を紹介する――。
明智光秀像
明智光秀像(画像=朝日新聞デジタル/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

あっという間に成功した夜明けの謀反

信長討取りも、あっけないくらい簡単に成功した。本能寺(この時代四条西洞院にあり)に攻めかかったのが卯の刻というから午前6時、7時か8時頃にはもうらちがあいていた。

信忠の宿所妙覚寺(室町薬師寺町)にも同時に兵を分けて攻めかかっていたのであるが、信忠には信長とちがって500人ほどの手兵がある。囲みを突破して二条御所に入ったが、本能寺をほふった明智勢が一手になって攻撃にかかったので、これまたささえ得ず、自殺して果てた。大体9時頃であったろう。

問題は、光秀はなぜ謀叛したかだ。

無防備な信長の姿に野心が芽生えた?

最も世に行なわれているのは、怨恨説だ。次は久しい計画であったという説。現代の学者の代表的見解を上げると、高柳光寿博士と徳富蘇峰氏は全面的の否定説だ。とくに高柳博士は専門学者だけに、これらのことがらの記載された書物が信用出来ないものであることを説いて、痛快なまでに否定している。

桑田忠親博士は、怨恨説についての個々の事実は信じないが、光秀が信長にたいして怨みをふくんでいたことは事実であろうと言っている。そのよりどころは、彼が信長をたおした後、小早川隆景にやった書状だ。これは原本は伝わっていないが、全文が別本川角太閤記にのっていて、その一節に、

「然れば、光秀こと近年信長に対して憤りをいだき、遺恨黙止もだしがたく、今月二日、本能寺において信長父子をちゅうし、素懐そかいを達し候」

とあると言っている。

桑田博士はまた明智軍記の、信長が光秀から近江・丹波の旧領をとり上げて、そのかわりに出雲・石見をあたえると言った記事も、ある程度認めて、そのよりどころを、丹波の「人見文書」と「言継ときつぐ卿記」にもとめている。

「人見文書」中には織田信孝が四国出陣のために丹波の国侍にあたえた天正10年5月14日付の軍令書があるから、この頃光秀の丹波における軍事権はとり上げられていたと見、この処置にたいして斎藤利三が憤慨反抗したことが「言継卿記」にあると説いている。

そんなら徳富氏や高柳博士は、どこに光秀の謀叛の原因をもとめたかというと、信長が最も無防備な姿で本能寺に来たので、ふっと光秀の胸に天下取りの野望が兆したのである、当時の大名で力量才幹に自信ある者は皆天下がほしかったのだから、乗ずべきすきがあった場合これに乗じたのに何の不思議もないと説くのである。

ぼくはこれらの学者達の説を一応買うが、別に一説がある。