信長に叱責されてから3年目でようやく…
これらの記述を読んで感じられるのは、信長が心中ではすでに利家をゆるしていることだ。ただそれを口にしないのである。利家にはそれがわからない。こうまで働いてもゆるしてもらえない残念さに、「クソ、死んでやる。死んだらおれの心もわかってもらえるじゃろう」となったのであろう。
二人は特別な関係のある主従だ。この時の信長の利家にたいする感情は一種の嗜虐的愛情であったと見てよいのではあるまいか。
正式に勘気が赦免になったのは、翌年の5月であった。美濃の長井甲斐守某と信長との間に行なわれた森部合戦で、利家が真先かけて敵中に突入、首二級を取って信長にささげたところ、信長ははじめて、
「手柄であったぞ」
とことばをかけてくれ、前に召して、なにくれとなくやさしく語ったという。最初に勘気を受けてから足かけ3年目である。
「お許し」が出たとたんに異例の好待遇
重修諸家譜によると、この時知行地を加増されて、合して四百五十貫文の身代となり、つづいてその年中に赤幌を用いることをゆるした。これは武功世にゆるされた者だけにゆるされることになっていることなので、利家は、
「ありがたき仰せながら、拙者は若年者でござれば、それはご辞退申したく存じます」
といったが、信長は、
「年は若いが、武功は老いている。辞退することはない」
と、おしつけて許した。利家わずかに24の時だ。当時の武士にとっては非常な名誉であったに相違ない。


