悲運の時こそ「友人の本心」がわかる
目前に自分が見ている前のことだ、信長は激怒した。
「おのれお犬め、おれに面当いたしおる。成敗してくれる」
とどなって、刀をつかんで立ち上り、駆け出そうとしたので、柴田勝家と森三左衛門とが立ちふさがって、利家のためにさんざんに詫言した。それで信長は成敗を思いとどまったが、長の暇をくれたので、利家は牢人せざるを得なくなったとある。同書によると、これは桶狭間合戦の前年のことになっているから、利家22の時である。
この牢人中のことを、後年利家が家来共にこう述懐していることが「亜相公御夜話」にある。
「人は非運に沈んでみねば、友の善悪もわからねば、自分の心も知れぬものじゃ。おれが若い時十阿弥を斬って牢人していた時、かねて兄弟ほどに仲ようしていた朋輩共、ほとんど全部見舞にも来てくれざった。森三左衛門・柴田勝家の二人のほかは二、三人のお小姓が色々と心をはこんでくれただけであった。またずっと後年、小田原陣でおれが太閤様のごきげんを損じた時、日頃おれがところに出入りして、おれも目をかけてくれていた者どもが、多くはご前でおれが悪口ばかり言うたげな。木村常陸介などは兄弟のように懇意にしていたのに、やはりかれこれざん言したそうな。蒲生飛驒(氏郷)・浅野弾正(長政)の二人は、いろいろとご前でとりなしてくれたそうな。非運に沈んでみんと人の心はわからぬ。そういう時、いろいろと世話をやいてくれる者はまことに少ないが、そんな人間でなければ頼りにならんぞよ。また人間非運の時には心がひがむものでのう。情ないものよ」
彼の牢人中の生活を書いたものは他にはないが、この記述によってあらましの感じだけはわかるであろう。この述懐は今日の人にも教訓になることであろう。
合戦で手柄を上げても信長は褒めなかった
翌年夏の桶狭間合戦に、牢人ながら彼は馳せ参じて、一番首を取り、信長の実検に供すべく信長の近くへ来た。近習の者がそれを見て、
「前田孫四郎首をとってまいりました」
と言ったが、信長はふりかえりもせず、
「侍の役じゃ。首取ったが何めずらしかろう」
とつめたく言った。
利家はぶら下げていた首を水田の中に投げこみ、再びまっしぐらに敵をめがけて駆け出した。
近習の者らが信長に、
「孫四郎は薄手を負うています。この度は討死の覚悟のように見受けられます」というと、
「急ぎ引きとめよ」
と命じたので、人々は駆け出して引きとめた。しかし、信長はまだ勘気赦免のことばはかけなかった。
重修諸家譜では、再び敵に駆けこんでまた首を取って来て捧げたが、信長はなおことばをかけてくれなかったとなっている。

