不本意な「空気」を打ち破るにはどうすればいいのか。日本最古の書物『古事記』には、空気を読まない神々が描かれている。作家・町田康さんは「『古事記』にはビジネスのヒントがある」という―――。
町田 康(まちだ・こう)
撮影=小西範和
町田 康(まちだ・こう)
1962年大阪府生まれ。97年初小説『くっすん大黒』でBunkamuraドゥマゴ文学賞と野間文芸新人賞受賞。2000年「きれぎれ」で芥川賞、05年『告白』で谷崎潤一郎賞、23年『口訳 古事記』で舟橋聖一文学賞を受賞。他の著書に『口訳 太平記 ラブ&ピース』など。

現代を蝕む空気の正体は日本人の生存戦略か

今の日本社会を見ていると、人々の「皮膚」のようなものが、どうも薄くなったように感じるんですね。昔はね、日本人というのはある程度、「鎧」みたいなもんを着こんでいて、「そんな言い方されるのは好かんけど、まあ、ええやろ」という感じで、周りで起こる不快な出来事なども軽く受け流していたと思うんです。でも、今はその鎧をどこかに置き忘れてしまい、皮膚がそのまま外に出ているような、そんな“弱さ”が社会全体に広がっている気がするんですよ。

何かすごく繊細で、すぐにこう、へこたれるというか、傷つくというか。

例えば、誰かが何かをやろうとすると、最初に出てくるのが「でも、そんなことしちゃあかんのちゃうか」といった疑問であったり、「こんな弊害が出るんちゃうか」というネガティブな想像だったりする。未来の希望や「新しい景色を見に行こう」みたいな話よりも、やってはあかんことの理由探しのほうが先に出てくるわけです。

これはどういうことかというと、みんな心のどこかで「この社会で生き延びるためには、こういう構えでおらなあかん」と思い込んでいる、ということです。生存戦略と言えば聞こえはいいけれど、実際にはただ周囲の目を気にして縮こまっているだけ、という場合も多い。しかも、みんながそうした「傷つきやすさ」から身を守ろうとしているうちに、ネガティブなエネルギーが社会全体を包んでいってしまう。これが、今の「空気」の正体の一つなのではないでしょうか。

で、そういう環境で育ってしまった子らは、要するに、“空気を読む”ということが、昔みたいな場を支配するための特殊技能や処世術ではなく、徳目、つまりは「できて当然の人としての態度」みたいになってしまっているんですね。これは現代社会における大きい変化だと思います。

そうした社会では、空気を読まへん奴は「場違いな奴」ということになり、葬式に柄物のシャツを着てる奴が来た、くらいの衝撃を与えるわけです。マナー違反を通り越して、「おまえ、人としてどうなん?」みたいな顔をされてしまうんですね。

僕はずっとパンクロックをしてきた人間ですから、空気を読むなんて最初からかっこよくない行為だと思ってきました。だいたい、空気を読むパンクロッカーってなんやねん、という話ですよね。そういう意味で言うと、空気を読むということに僕はもともと抵抗感があるんですけど、最近はその抵抗すら許されない雰囲気があって、なんだか息が詰まるような思いがしますね。

空気を読むというのは、結局のところ「他人の機嫌の調整」です。今この場がどういうムードなのかを考え、それに合わせて自分の言動を変える。そうすると、だんだん自分の考えより空気のほうが強くなってきて、“これは本当に正しいのか”といった本来あってしかるべき判断がどんどん鈍っていく。結果として、みんなが同じ方向を向いて、同じ歩幅で歩くようになってしまう。

でも、それでは何も生まれません。だって、空気を読む社会というのは、「成果を生まない社会」でしょう。みんなが全力で失敗しないように動くんやから、創造性なんてもんが生まれるわけがない。全員が空気を読んで、「そうですよね」「確かに」「それが無難ですね」と言っているうちは、新しいものなんて絶対出てこないし、「今ここにある問題」を突破する力も出てこないんじゃないでしょうか。

では、どうしてこんな空気が広がってしまったのか。僕らはその空気をどう突破すればいいのか。そのことを考えるヒントとして、今日は僕の口訳した『古事記』や『太平記』といった古典の世界について話してみたいと思うんです。