お市の方は、兄・織田信長と夫・浅井長政が敵対したことで板挟みの状況となった。歴史学者の黒田基樹さんは「小説やドラマでは、長政との愛情や信頼関係を理由に離婚しなかったかのように描かれることが多いが、それは近代的な夫婦関係をもとにした幻想にすぎない」という――。

※本稿は、黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

左:浅井長政の肖像画(部分)、右:浅井長政夫人(お市の方)の肖像画
左:浅井長政の肖像画(部分)(写真=高野山持明院蔵/M-sho-gun/PD-Japan/Wikimedia Commons)、右:浅井長政夫人(お市の方)の肖像画(写真=高野山持明院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「信長の妹」との結婚で友好関係を築く

長政は、永禄10年(1567)に織田信長と同盟を結び、お市の方と結婚した。それは、朝倉家に従属する関係にあったなかでのことであった。にもかかわらず、信長と同盟を結んだのは、隣国の美濃が信長の領国となり、しかも信長が同国に本拠を移してきたことで、信長が隣接する政治勢力として登場することになり、六角家への対抗のため、いちはやく信長に接近し、友好関係の形成をはかったのだろう、と思われる。

そういえば長政とお市の方の結婚が成立した直後の時期に、六角家は信長との友好関係の構築をはかってもいた。ということは、長政と六角家はともに、新たに美濃を領国とした信長に接近をはかっていたことになる。

そこでは長政がいちはやく信長との友好関係の構築に成功したといえよう。しかもお市の方との結婚までも成立させることになり、その関係を確固たるものにしたのであった。

戦国大名としては対等ではなかった

それでは長政と信長の同盟関係はどのような性格のものとみることができるであろうか。長政の立場は、越前朝倉家に従属する国衆というものであった。他方の信長の立場は、美濃・尾張・伊勢北部という複数の国を領国とした戦国大名というものであった。

戦国大名としての規模でいえば、相模北条家・甲斐武田家・越後上杉家や安芸毛利家と比べれば、はるかに小規模であったものの、近江周辺では随一の領国規模にあった。長政の周辺地域では、最大規模の戦国大名であった。このことからすると、たとえ婚姻関係を成立させたとはいえ、長政と信長が全く対等の関係であったとは思われない。それは信長を上位にした関係であったと考えられる。

ただそれが、長政が信長に従属する関係であったのかは、わからない。長政が信長本拠の岐阜城に出仕したり、信長に人質を出していれば、そのように認識できるが、その事実は確認されない。

とはいえ両者の関係は、翌永禄11年に、信長が足利義昭を擁して上洛を遂げたことで、決定的に変化する。