※本稿は、黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
織田勢力を二分する戦いの始まり
勝家と秀吉の対決は、勝家方の先制攻撃ではじまった。天正11年(1583)正月、信孝・勝家に味方していた滝川一益が挙兵した。滝川は、北伊勢を領国としていて、柴田・羽柴・惟住(丹羽)らに匹敵する有力な織田家の家老であった。
しかし「清須会議」後の織田体制では、政権中枢から排除されていた状態にあった。そのため滝川は、信孝・勝家と秀吉の対立にあたって、信孝・勝家に味方する立場をとっていた。滝川はここで、領国周辺の攻略を開始したのである。そのため秀吉は、2月10日に、滝川攻撃のため、北伊勢に侵攻した。
これをうけてであろう、勝家も2月28日に、味方勢力支援のために、まだ雪深いなか、先陣を近江北部に出陣させた。自らも3月に入ってから近江北部に進軍し、柳ヶ瀬(長浜市)に着陣した。これをうけて秀吉は、北伊勢の攻略を信雄に委ねて、自身は近江北部に転進し、柳ヶ瀬の柴田軍に対峙する。
「秀吉vs勝家」の決着はあっという間
4月に入ると、今度は岐阜の信孝が挙兵した。そのため秀吉は、信孝攻略のため美濃大柿城(大垣市)に着陣した。これをうけて勝家は、4月20日に、甥の佐久間盛政に賤ヶ岳の秀吉軍を攻撃させ、中川清秀らを戦死させる。それに対して秀吉は、大柿城からすぐにとって返し、21日に柳ヶ瀬の柴田軍と合戦し、これに勝利した。すなわち賤ヶ岳合戦である。
合戦に敗北した柴田軍は壊滅状態になって敗走し、勝家もまた本拠の北庄城まで敗走した。秀吉軍はこれを追撃しつつ進軍してきて、秀吉は22日に越前府中城(越前市)に着陣した。ここで勝家の与力武将であった前田利家らが秀吉に降伏している。
そして23日に北庄城に攻め寄せてきて、北庄城は秀吉軍に攻囲された。賤ヶ岳合戦の敗北からわずか2日後のことにすぎなかった。合戦での敗北で、柴田軍はほとんど壊滅状態におちいっていたことがうかがわれる。

