豊臣秀吉には、正妻・寧々のほかに複数の別妻がいた。歴史学者の黒田基樹さんは「秀吉の嫡男を産んだのは、別妻の茶々だった。それは、彼女が信長の妹・お市の方の娘だったからだ」という――。
※本稿は、黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
淀殿(茶々)と豊臣秀吉(写真左=奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons、右=高台寺蔵/狩野光信画/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
「信長の姪」浅井3姉妹の嫁ぎ先
茶々の動向としては、天正11年(1583)8月に、姫路城に居住していた以降は、よくわかっていないが、その後に大坂城に移ったとみて間違いないであろう。
そして次に動向が確認されるのは、それから3年後となる同14年10月1日に、「茶々の御方」が、秀吉母の「大政所」(天瑞院殿)を訪問していることである。これは藤田恒春氏(「大政所の居所と行動」藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』所収)によって指摘されたもので、その後、福田千鶴氏(『江の生涯』)もその指摘を採用している。
ここにみえる「茶々の御方」は、それらが指摘するように、茶々のこととみてよいであろう。そしてそのうえで福田氏が指摘しているように、「御方」と敬称が付されているので、この時には茶々は、秀吉の別妻になっていたと考えられるであろう。すなわち茶々は、この天正14年10月までに、秀吉と結婚したと考えられる。
「渓心院文」では、茶々は、秀吉の求婚に対し、妹の結婚を差配してくれたら結婚する、と答えていた。天正12年に長妹の初が京極高次と結婚し、同13年10月に次妹の江が羽柴秀勝と結婚した。そうすると茶々は、それらをうけて、秀吉と結婚した、と考えられるであろう。
