「織田家の血筋」が後継者になる条件
秀吉の養嗣子は、信長実子の次秀勝であった。そのことは羽柴家の後継者は、織田家の血筋を引く必要があることを示していた。しかし次秀勝は、同13年12月に病死してしまった。秀吉はその前年に、寧々の甥にあたる秀俊を養子に迎えていて、秀勝死去後は、秀吉後継者の立場に擬せられていた。そうしたなかで寧々は、茶々の妊娠を承認したことになる。
それは羽柴政権が、織田政権を組み替えて成立したものであり、政権を構成する有力大名は、織田家一族とその旧臣によって占められていたことが関係しよう。彼等への優位性を確保するには、羽柴家の後継者は、織田家の血筋を引くことが必要と認識されていたのであろう。
茶々が秀吉の別妻になった時点で、すでに松の丸殿、さらには加賀殿が別妻になっていたことが想定された。しかし寧々は、彼女たちには秀吉の子どもを産むことを承認しなかったことになる。
秀吉の嫡男の母方の実家となれば、政権内で大きな影響力を持つことになろう。京極家や前田家をその立場におくことは、それらが他の大名家と同格でしかなかったから、適切ではないと考えられたのであろう。やはりそれは、織田家しか考えられなかったことであろう。それゆえに茶々にのみ、秀吉の子どもを産むことが認められたのだろうと考えられる。
茶々だけが「秀吉嫡男の母親」になれた
茶々は、天正17年5月27日に、秀吉の長男鶴松を産んだ。これにより茶々は、秀吉嫡男の生母として、「御袋様」と尊称されることになり、正妻の寧々に次ぐ地位を確立させる。鶴松は残念ながら、同19年8月5日にわずか3歳で病死してしまうが、茶々の地位が変わることはなかった。
そしてそれから2年後の文禄2年(1593)8月3日に、茶々は秀吉次男の秀頼を産んだ。ここからも寧々が、秀吉の子どもを産むことを茶々だけに認めていたことが認識されよう。そしてこの秀頼が、その後は秀吉の後継者として存在していき、秀吉の死後にその家督を継ぐことになる。こうして茶々は、秀吉嫡男の生母としての地位を、再び確立させるのであった。


