「マイナス1」が続けば取り返しがつかない
「1週間前の朝・昼・晩に食べたものを思い出してください」。そう言われて、ぱっと答えられる人はほとんどいないと思います。先週の会議の内容は思い出せるのに、食べたものはなぜ思い出せないのか。栄養の話をする前に、まずはこの謎について考えてみましょう。
栄養疫学者・東京大学名誉教授。京都大学工学部、大阪大学医学部卒業。大阪大学・ルーベンカトリック大学大学院両博士課程修了。医師、医学博士。東京大学医学部において、日本の食事調査および疫学研究の基盤を築いた第一人者。日本栄養大学客員教授も務める。
行動経済学者のダニエル・カーネマンが提唱した理論によると、人間の思考には「システム1(直感脳)」と「システム2(論理脳)」の2通りがあります。人の脳は、日常生活で瞬時の対応が求められる小さな問題はシステム1で処理し、即答は求められないが熟考を要する問題はシステム2で処理します。システム1による判断は非科学的で、経験的で、バイアスがかかりやすい。ゆえに誤った、非合理的な判断をするリスクがあります。
この「日常生活で瞬時の対応が求められる小さな問題」の典型が「食事」です。食べることはあまりに日常的で身体に近い行為であり、人はどうしても直感的、即応的に処理してしまいます。「今お茶を飲むべきかどうか」をいちいちシステム2で考えていたら、先に喉が渇いて死んでしまいますから、そのこと自体は致し方ないことです。
システム1による食事の結果が、偶然の誤差としてプラスとマイナスで相殺されるうちはラッキーです。しかし、マイナス1の偏りがずっと続いたら、それが何十年と蓄積して、やがて取り返しのつかない健康被害につながります。これが、食事の恐ろしさです。
ビジネスパーソンであれば、好みや感覚で重要な意思決定をすることはないでしょう。数字を見て、比較検討して、論理的に判断しているはずです。それなのに、自分の寿命を左右する食べ物のことになると、なんとなくの直感で選んでいませんか。自分の健康の「経営」はそれで大丈夫でしょうか。
ムダな情報があふれて大切な情報を隠している
そこで、できるだけシステム2を使って科学的・論理的に食べるものを選ぼうとしたとき、拠りどころとなるのが「エビデンス」です。メディアではこれが魔法の言葉のように使われています。もちろんエビデンスは重要ですが、それらと向き合うには少なくとも3つの考え方が必要です。
第1に、「自分に関係があるか」。血圧が高くない人には、血圧を下げる食べ物のエビデンスは当面関係がない。この当たり前の前提が、意外なほど見落とされています。たとえば、「グルテンフリー」は本来、セリアック病という欧米諸国で多い自己免疫疾患のための食事療法ですが、セリアック病が何かも知らずに飛びつく人がいます。何を取り入れるかを考える前に、まずは自分の体の状態と、自分がふだん食べているものを知ることから始める必要があるでしょう。
第2に、「相対重要性」です。生活習慣病は複数の原因で起こり、原因ごとに影響力の大小があります。たとえば信頼に足るエビデンスがAとBの2つあり、Aは自分にとって影響力が大きく、Bは小さいとします。さて、生活習慣病予備軍の皆さんは、そんなふうにエビデンスを2つ並べて相対的に考えるでしょうか。もし相対重要性を無視してBに飛びつくと、効果が乏しいだけでなく、本来取り組むべきAを逃してしまうという二重の損失が生じます。「血圧が高くて減塩をすべき人が、減塩はせず、ほとんど効果のないサプリを飲んで満足している」のは相対重要性を理解していない行動の典型です。
第3に、“発見の科学”と“検証の科学”の区別です。世の中に出回っている栄養情報の大半は、「物質Xがなぜ血圧を下げるのか」といったメカニズムを動物実験などによって探る“発見の科学”のエビデンスです。一方、「どれくらいの量を食べたらどれくらい効果があるか」「AとBのどちらがどれだけ効くか」という「量と比較」を扱うのが、“検証の科学”です。
私の専門である栄養疫学は、人が実際に食べているものの種類や量を調べ、時間をかけて体への影響を検証する学問であり、まさにこの“検証の科学”に立つ分野です。「食塩は血圧を上げる」という事実だけでは、私たちはどんな行動をとればよいかわかりません。「1日5グラム未満なら高血圧にはほとんどならない」といった知見は、疫学研究によって初めて明らかにされるのです。
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