織田信長の死後、豊臣秀吉が天下人となり、徳川家康は秀吉に従属することになった。歴史家の黒田基樹さんは「家康は親類大名として、政権の中で信長の次男・織田信雄に次ぎ、秀吉の実弟・秀長と同等の地位に位置付けられた」という――。

※本稿は、黒田基樹『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

狩野探幽作 徳川家康像
狩野探幽作 徳川家康像(写真=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

秀吉の妹との結婚はトラブル続き

秀吉への従属にともなう条件の一つが、家康と秀吉の妹・朝日(旭、南明院殿なんめいいんでん、1543〜90)との結婚であった。天正14(1586)年4月5日の時点で、秀吉は朝日の婚姻行列にともなう準備を直臣に命じていることから、結婚の取り決めがそれ以前におこなわれていたことがわかる。結婚の準備期間を考えると、あるいは2月末の時点で決定されていたとも思われる。

徳川家の家中が、この結婚を知ったのは4月11日で、同14日に婚儀が同28日におこなわれることに決まったことが伝えられている。秀吉は、4月27日から29日にかけて天気次第でおこなうことにしていた。

ところが4月19日に問題が生じた。家康は結納の使者として家臣天野康景を派遣したのだが、秀吉は見知らぬ人物であったために怒り、婚儀を延期するとした。酒井忠次・本多忠勝(1548〜1610)・榊原康政のいずれかを派遣するよう、秀吉家臣の小栗大六と信雄家臣の土方雄良を寄越して要求してきた。

理由はわからないが延期に次ぐ延期

家康は難しい事態になったとして、秀吉との断交(「事切れ」)も考えたが、それでは信雄が面目を失うという土方の説得をれて、本多忠勝を23日に派遣した。そうして婚儀は5月9日におこなわれることが決まった。なおこの日付は、その後の状況をみると、三河に入国する日取りとみなされる。

ところがここでも問題が生じた。7日に、婚儀にともなって交換される起請文の内容に問題が生じたためか、婚儀はさらに延期されることになった。何が問題であったのかまではわからないが、9日に、翌10日におこなわれることになった。そうすると問題は解決されたのであろうか。

しかし10日になると、翌11日に延期された。延期の理由はわからないが、何らか準備か天候に差し障りが出たためであろうか。