織田政権でも姻戚関係で地位を築く

そもそも家康は、前政権の織田政権において、すでに高い政治的地位に位置付けられていた。それは嫡男信康が織田信長長女・五徳ごとくの婿という姻戚関係によっていた。これにより家康は、「織田一門大名」の立場に置かれていた。この姻戚関係は、信康事件によって解消されるが、家康の政治的地位は継続された。

本能寺の変後では、織田信雄・同信孝に次ぐ地位に置かれていた。そのため秀吉が家康を政権内に位置付けるにあたっては、信雄に次ぎ、秀長と同等の地位ほどにする必要があり、そのために家康を妹婿にした、とみることができる。

【図表1】徳川家・羽柴家関係系図
出所=『徳川家康の最新研究』P193

信雄の失脚・秀長の死去で「単独トップ」へ

信雄・家康=秀長という序列はしばらく継続され、同15年8月8日に、信雄が正二位・内大臣(任官は11月か〈『公卿補任』〉)、家康・秀長は従二位・権大納言に昇進するが、序列は変化していない。その後、同18年に信雄が失脚して、辞官し、前内大臣の立場になると、家康・秀長が諸大名筆頭になった。さらに同19年に秀長が死去したことで、家康は単独で諸大名筆頭に位置することになった。

妻朝日は前年の同18年に死去していたが、家康の地位が変わることはなく、その状態は、秀吉が死去するまで継続された。そのなかで慶長元年(1596)5月8日には正二位・内大臣に叙任されるまでになる。その時点で、前田利家(1539〜99)が権大納言に昇進されて次点についてくることになるが、家康の政治的地位は他大名を凌駕りょうがし続けた。

また領国規模においても、家康は他大名を凌駕していた。秀吉に従属した際の領国高については、正確には不明であるが、「伏見普請役之帳」(「当代記」所収)にみえる各国の石高こくだかと各大名の知行高ちぎょうだかが参考になる。なお同史料は慶長2年・同3年頃の作成と推定されている(白峰旬『日本近世城郭史の研究』)。