盛大な婚姻行列が家康の地元へ

そして11日、朝日の徳川家領国入りがおこなわれる。朝日が大坂城を出立したのは、のちに秀吉母の大政所おおまんどころ天瑞院殿てんずいいんでん、1516〜92)が足かけ6日で三河に到着していることを参考にすると、6日頃のことであったと思われる。そうすると起請文に関わる問題は、朝日の出立直後に生じたものであったことになり、それにともなって2日延期されているので、実際の出立は4日頃のことであったとも考えられる。

さて朝日の三河到着にともない、家康家臣は、羽柴方領国との境目にあたる三河池鯉鮒ちりゅう(知立市)まで出迎えに行き、西の野で羽柴家から朝日を請け取った。朝日に供奉ぐぶしてきた秀吉家臣は、浅野長吉・富田一白かずあき・伊藤秀盛・滝川益重、織田信雄から派遣されてきた家臣は、織田長益・滝川雄利・飯田半兵衛らであった。

そして徳川家から輿添こしぞえしたのは、内藤信成・三宅康貞・鳥居忠兵衛・久野左大夫・粟生将監しょうげん高力こうりき正長・榊原忠政らであった。

婚姻行列は長柄輿ながえごし12丁、釣輿つりごし15丁、銭貨3000貫文(約3億円)・金銀2、道具は数知らず、という盛大なものであった。その日に岡崎城に到着した。

政略結婚で「44歳の正妻」を得た

12日、朝日は吉田城に到着した。城主酒井忠次とその与力よりきの三河在住の重臣と、羽柴家・織田家家臣とのあいだで贈答の遣り取りがおこなわれている。13日は雨が降ったため吉田城に逗留し、14日に、朝日は浜松城に入った。そして婚儀は16日におこなわれた。16日から18日にかけて、婚儀にともなう「三日御祝い」がおこなわれている。

こうして朝日の大坂出立からも紆余曲折はあったものの、家康と朝日の結婚は無事におこなわれた。この結婚が、家康からの要請か、秀吉からの申し出か、いずれかは判明しないが、ともあれこれにより、家康は秀吉の義弟という立場になった。

朝日は天文12年(1543)生まれであったから、家康よりも1歳年少にすぎず、この時は44歳であった。当然ながら当時としては子どもを産める年齢ではないので、この結婚は、秀吉と家康の姻戚関係を形成するためのすぐれて政治的なものであった。

豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画
豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画(画像=京都・南明院所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

家康にはこの時、正妻は不在であったので、当然ながらこの朝日が正妻に位置した。家康にとっては、築山殿つきやまどのに続く2人目の正妻となった。