福沢諭吉の有名な著作に『学問のすゝめ』がある。日本政治史学者の久保田哲さんは「この本には『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』という一節がある。しかし福沢が本当に伝えたかったことは、続きに書かれている。なぜ平等なはずの人間に貧富の差が生まれるのか。その答えが最も大切なメッセージだ」という――。(第1回)

※本稿は、久保田哲『福沢諭吉 敗け続けの偉人』(集英社インターナショナル)の一部を再編集したものです。

福沢諭吉(1891年頃)
福沢諭吉(1891年頃)(画像=福沢研究センター/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

門下生になった元暗殺者

文明化を主張する福沢は、暗殺対象であった。福沢を狙おうとする者が案外近くにいることは、珍しくない。熱心な攘夷論者などが、同郷の開国論者の命を狙うことも考えられる。増田宋太郎そうたろう朝吹英二あさぶきえいじがそうであった。増田にいたっては、福沢の再従弟はとこである。

明治3年(1870年)閏10月、福沢は中津に向けて東京を出発した。かねてより母・順に上京を促しており、ようやく同意した順と姪の一を迎えにいくためであった。翌月に中津に到着すると、増田に動向を偵察された。いよいよ狙われるとなったその日、福沢は服部五郎兵衛と一晩中酒をみ交わしていたため、実行に移されなかった。

順らを連れて東京に戻る途中、福沢は大坂に立ち寄った。ここでは、増田の指示を受けた朝吹に狙われたが、たまさか寄席のはね太鼓が鳴ったために難を逃れた。

増田と朝吹はその後、福沢の考えを聞くにつけ考えを改め、慶応義塾に入塾し、福沢とともに暮らすこととなる。増田は中津に戻ると『田舎新聞』を発行して民権論などを説いた。明治10年の西南戦争では中津藩士族を率いて西郷軍に呼応し、鹿児島の城山で戦死した。朝吹は、先に紹介した慶応義塾出版部の主任を務めたほか、三菱会社や鐘淵紡績かねがふちぼうせき会社、三井系諸会社の重役を歴任した。

福沢諭吉が最期まで主張し続けたこと

さて、中津での福沢は、藩の重役から藩政への意見を求められ、武備の全廃と洋学塾の開設を説いた。そして明治3年11月27日、中津の人びとに向けて「中津留別りゅうべつ之書」をしたためた。今日では、一般にほとんど知られていないこの書き物のなかには、福沢が生涯をかけて主張し続けた内容が盛り込まれている。

福沢はまず、徳を修め、知識を求め、積極的に交際することで、「一身の独立」を遂げることが何より重要であるという。そのために必要なものが、「自由」である。「自由」というと、好き勝手にしていいと誤解されることもあるが、「他人のさまたげを為さず」「我心を以て他人の身体を制せず、おのおの其一身の独立を為さしむる」ことをいう。したがって、「貴賤長幼の差別」があってはならない。一身の独立が一家、一国、そして天下の独立に結実するのである。

夫婦関係も見直さなければならない。めかけなど認めてはならず、夫婦は対等な関係であらねばならない。これが子への教育にもつながっていく。しかし、残念ながら「世の開るにしたがひ、不善のやからも随がって増し」ていくきらいがある。それゆえ政府の役割が重要となるが、「国の政事を取扱ふほどかたきものはな」い。