福沢諭吉はなぜ「脱亜論」を唱えたのか。日本政治史学者の久保田哲さんは「中国と朝鮮に対する過激な表現が目立ち、アジア侵略主義の先駆けと理解されることが多い。しかし、これは完全な誤解だ。福沢が本当に伝えたかったことは、ある書簡に書かれている」という――。(第2回)

※本稿は、久保田哲『福沢諭吉 敗け続けの偉人』(集英社インターナショナル)の一部を再編集したものです。

時事新報、明治22年2月の紙面
時事新報、明治22年2月の紙面(画像=早稲田大学/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

新聞に綴った「朝鮮人蔑視」

日本政府は、明治18年(1885年)1月9日に朝鮮と講和条約(漢城条約)を締結すると、4月18日には清とも講和し、天津条約を締結した。天津条約には、日清両軍の朝鮮からの撤兵が盛り込まれており、福沢が求めた結果とはいえなかった。

福沢に、多くの朝鮮開化派とその父母妻子が処刑されたという情報がもたらされると、『時事新報』(2月23日付)にこう綴った。

朝鮮は「儒教主義に心酔して既に精神の独立を失」っただけでなく、「支那の干渉をこうむって独立の国体を失」ってしまった。「支那の風をまなびて又支那人の指揮に従ひ」、ますます野蛮になっていくだろう。いや、野蛮という言葉では収まらず、「人間娑婆しゃば世界の地獄は朝鮮の京城に出現した」のである。これでは、朝鮮の人びとを「同族視」できず、「人民の情交に於て親愛を尽す」こともできない。

開化派の「精神はつくす」ことはなく、いずれその思いを継ぐ勢力が誕生するだろうと希望的言及もあるとはいえ、開化派を退けた守旧派勢力への憤りや怒りを情緒的に表現した。

もとより福沢は、西洋人からアジアをみれば、清は日本よりも「見栄えのする国柄」なので、日本はますます文明化を推し進め、「支那の為におおはれ」ないようにすべきだとの論を展開してきた(明治17年3月5日付)。清仏戦争勃発後も、日本が「東洋に一機軸を出」すことで、西洋人に「友として親しむ可く敵としてはばかる可き」アジアの国が日本であると知らしめなければならない(9月4日付)、文明化を望まない清との「交際は唯商売のみに止」めるべきである(9月27日付)、などと文明化の進まない清と比較する形で日本の文明化を強調していた。

目に余る過激発言の代償

甲申政変後には、その比較対象に開化派が淘汰された朝鮮を加えた。いまや文明化は世界の潮流であり、国家の独立を維持する道であるため、日本は明治維新を経てこれを推し進めてきた。にもかかわらず、清・朝鮮の両国は「無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空気の流通をたちて窒息する」ようである。「西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するが為に、時に或は之を同一視」することもあるだろう。これは日本の外交に支障を来たしかねず、「一大不幸」である。日本はむしろアジアを「脱して西洋の文明国と進退を共に」すべきである(明治18年3月16日付)。

朝鮮に対しては、その後もさまざまな表現を用いた。甲申政変は残念であったが、「転禍為福わざわいてんじてふくとなすと称す」ように、かえって朝鮮で「国民独立の精神」が生まれる契機となるかもしれないと、ここでも希望的観測を示す(4月2日付)。他方で、朝鮮の「滅亡こそむしろ其幸福を大にするの方便」であるとも綴った(8月13日付)。むろん、ここでいう朝鮮の滅亡とは、開化派と敵対する朝鮮政府の滅亡を意味している。なお、この社説が過激であったために『時事新報』は発行停止処分を受けた。

朝鮮問題は、福沢の敗北に終わったのである。