強硬発言を続けた福沢諭吉の本音
ところで、福沢はなぜ強硬で煽情的な言葉を書き連ねたのであろうか。今日のSNSさながら、書籍よりも短い文章で瞬間的に多くの読者を得られる新聞社説という新たなメディア媒体に魅了され、自己陶酔し、大衆迎合主義に陥っているようにもみえる。
当時の福沢の本音を垣間見ることができる貴重な書簡がある。明治18年4月28日、田中不二麿に宛てたものである。その内容を紹介しよう。
甲申政変に関して、開化派のクーデターに関する情報を「日本之公使は全く知らざる者にあらず」、むしろ日本政府の一部が竹添進一郎にクーデター支援をけしかけた面がある。これは日本の国益を損なうもので、「大失敗」であり「大心配」である。こうなれば「無茶」であることは承知ながら、「時事新報抔にも専ら主戦論を唱へ」、紙面の内容と「内実とは全く別にして我非を蔽はん」としたのだ(鈴木栄樹「福沢諭吉と田中不二麿 再論(四)」『福沢手帖』)。
想定外だった「脱亜論」の一人歩き
福沢の得ていた情報の正確性は、ここでは論じない。重要なのは、日本政府の対応が甲申政変の要因の一つであるとみたこと、それが外交上日本に極めて不利に働くこと、その結果清の朝鮮への影響力が高まり開化派が一層追い込まれてしまうこと、などを福沢が認識しており、それゆえに『時事新報』上にあえて主戦論を書き連ねたと述べていることである。つまり福沢は、国内のみならず国際情勢や諸外国からの視線をも意識して一連の社説を書いたのである。
この内の一つに、有名な「脱亜論」もある。前項に一部引用した、明治18年3月16日付の社説がそれである。文明化に抗う清や朝鮮に対し、日本は「亜細亜全洲の中に在ありて新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ」だとも記されている。福沢研究者のなかでは、「脱亜論」は朝鮮の近代化に失敗した福沢の「敗北宣言」の一つに過ぎない、という評価が定着している。事実、福沢は以降一度も「脱亜」という言葉を用いておらず、掲載当時も特段話題になっていない。あくまで、時事論の一つであった。

