欧米列強に抱いた不信感
つまるところ、学問が重要なのである。
外国との交易が始まった今日、従来の「皇学・漢学などを唱え、古風を慕ひ新法を悦ばず、世界の人情世体に通」じていなければ、西洋諸国の「策中に籠絡せら」れてしまう。「中津の士民も、今より活眼を開て、先づ洋学に従事し、自から労して自から食ひ、人の自由を妨げずして我が自由を達し」てほしい。
西洋を訪れ文明を知り、また外交文書を読むなかで彼らの横暴さも知った福沢による、故郷への訴えである。この文書の終盤には、次のように記されている。「人誰か故郷を思はざらん、誰か旧人の幸福を祈ざる者あらん」(『全集』20)。
明治4年11月、福沢の助言を受けて、中津に洋学校が設立された。中津市学校という。
慶応義塾の塾長も務めた小幡篤次郎が初代校長となり、中上川彦次郎や松山棟庵などが教師として慶応義塾から派遣された。同校は、明治16年1月に廃校が決まったものの、正門は中津市立南部小学校生田門として現存している。
学校教材からベストセラーへ
教育と著作により日本を文明化に導く――福沢によるこのような活動の一つの集大成がある。
今日でもっとも有名な福沢の著作、『学問のすゝめ』である。
そもそも『学問のすゝめ』は、先に紹介した中津市学校の設立を受けて、明治4年12月にそこで学ぶ学生に向けて書いたものである。これが好評で明治5年2月に刊行された。以後、福沢は続編を執筆し、明治9年11月までに17の小冊子が作成された。福沢は、全17編で少なくとも340万部は流布されたとみている。さらに明治13年7月には、これらが合本されて出版された。
なお、同書初編は福沢と小幡の連名になっている。これは初代校長となる小幡を中津の人びとに知らしめようという配慮であったといわれる。ただし、一部の執筆に小幡が関与していた可能性も指摘されている。

