※本稿は、黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
正妻と嫡男を幽閉し、自害させた家康
築山殿・信康事件というのは、天正7年(1579)8月4日に、家康が岡崎城主であった嫡男・松平信康を、「逆心」を理由に追放し、次いで幽閉し、同時に家康の正妻で信康の生母であった築山殿を幽閉したことにはじまり、同月29日に築山殿を自害させ、続いて9月15日に信康を自害させた、というものである。
この事件は、「築山殿事件」「信康事件」「築山殿・信康事件」などと称されている。戦国大名家の当主が、正妻と嫡男をともに同時に自害させるという事態は、ほとんど類例をみない、極めて異常な事態である。ではどうして家康は、このような措置をとったのであろうか。
しかしながら事件については、関係史料がほとんど残っておらず、真相は現在でも判明しない。具体的に把握できる事柄は、家康が織田信長の側近家臣である堀秀政に宛てた書状から、天正7年7月に、家康は筆頭家老の酒井忠次を、近江安土城の織田信長のもとに派遣して、信康は「不覚悟」であるからとして、信長から信康追放について了解をえて、信康を追放した、ということにすぎない(『愛知県史 資料編11』1336)。
信長は家康の処罰申請を了解しただけ
事件の背景について記しているのは、江戸時代成立の史料にならないとみられない。そのなかでもっとも成立が早いのは、『三河物語』になる。
そこには、信長の長女で信康の正妻であった五徳が、信康の不行状を十二ヶ条の条書にまとめて信長に訴訟し、信長からその真偽について酒井忠次が尋問をうけ、酒井がすべて事実であることを認めたため、信長は家康に、信康を切腹させるよう命じた、と記されている。
この内容は、その後の江戸幕府関係の史料に踏襲され、近年まで通説をなしてきた。そのためこれまでは、信長はどうして信康を切腹させたのか、ということが考えられてきた。
ところが家康が堀秀政に宛てた書状や、「当代記」「安土日記」(『信長公記』の古態本)など信頼性の高い史料によって、信康処罰は、家康から信長に申請したもので、信長から、家康の考え通りとしてよい、と了解を得たにすぎないことが明らかになっている。したがって処罰の意志は、家康にあったのである。
このことから『三河物語』の内容は、信康処罰を信長の意向によるとすることで、処罰の意思が家康からでたことを隠蔽しようとしているものとみなされる。その後に成立した徳川家関係の軍記史料や編纂記録のほとんどは、この見立てを踏襲してきた。しかし実際には、事件は徳川家中のなかで発生したとみなされるのである。