17歳の信康が謀叛を画策したとは思えない
大岡らが企てた謀叛は、たしかに勝頼の調略をうけたものであろう。それは築山殿に出入りしていた唐人医の西慶を通じてのものであった、という。
ちなみにこの時期、築山殿は岡崎の築山屋敷に居住していて、浜松城在城の家康とは、別居状態になっていた。けれども西慶は武田家家臣ではなく、そうした者の働きかけを簡単に信用するとは考えられない。またその西慶を謀議に引き込んだのは、勝頼から指令をうけていた巫女であるといい、そのこと自体はありえなくもない。
ただその巫女は、築山殿に取り入って、武田家に味方するよう吹き込んだことは記されているものの、築山殿と信康にそれ以上の働きかけをしたことは記されていない。しかしそれだけで、家老や町奉行、家老の家臣が謀叛を企てるとは考えがたい。
事件の深刻さをみれば、そこに築山殿の意向が働いていたとしか考えられない。「岡崎東泉記」には、勝頼の調略が、築山殿に伸びていたことがみえているからである。そこには信康は登場していないから、信康は関知していなかったであろう。信康はまだ17歳にすぎなかったので、主体的に家康への謀叛を考えられたとは思えない。
これらのことからすると、信康家臣団中枢に謀叛をはたらきかけたのは、築山殿であった可能性が高い。築山殿が武田家に内通し、謀叛事件を画策したことは、おそらく事実と思われる。
徳川家の滅亡を覚悟していた築山殿の選択
では築山殿が、謀叛を企図したとして、それはどのような理由からと考えられるであろうか。「岡崎東泉記」は、その前提として、家康との夫婦仲が不和であったことを記しているが、それは家康と築山殿が別居していたから不和と認識しているのであろうから、十分な理由にならない。
巫女による託宣の内容は、築山殿と信康のその後の進退に関わることであった。そうすると考えられることは、信康のその後における存立であったに違いない。
この時期、徳川家の存続は危機的な状況に陥っていた。そのため築山殿が、徳川家の滅亡を覚悟するようになっていたことは十分に考えられる。それへの対策として、築山殿は武田家に内通し、信康を武田家のもとで存立させる選択をしたのではないかと思われる。