信康の「反抗期」で、父子関係にも暗雲
こうして家康と築山殿とのあいだに、信頼関係は失われることになった。築山殿の存在は、嫡男信康の生母という立場に特化するようになり、信康の存在に決定的に依拠するようになったことであろう。
大岡弥四郎事件の翌年の天正4年から、信康について、粗忽な行動が記録されるようになっている(「当代記」)。これはその後に問題とされていく、信康の「不覚悟」の始まりとみられる。そうして信康は、家康の命令を聞かず、岳父の信長を尊重せず、家臣に迷惑な行為を行った、といわれるまでになっていくのである(同前)。
『石川正西聞見集』にも、「行状が悪く、家臣が苦労した」と記されているので、信康の不行状は、おそらく実際のことだったのだろう。ちょうど不行状が始まるのが、大岡弥四郎事件ののちからであることからすると、その根底には、家康と築山殿の不和があり、それが家康と信康の関係にも影響するようになったとも考えられよう。
五徳が楊枝を取るかどうかが政治問題に
そのうえでさらに、信康は妻・五徳とも不和になっていった。その理由について「松平記」は、五徳が続けて娘を産んだことを理由にあげている。たしかに、天正4年(1576)に長女福姫(登久姫、のち小笠原秀政妻)が、同5年に次女久仁(熊姫、のち本多忠政妻)が生まれているが、これは信用できない。
これからもまだ出産は可能であり、そこで男子が生まれる可能性もあるからである。娘しか産まれていないことを理由にあげているあたりは、「女の腹は借りもの」とする江戸時代特有の観念をもとにしたものと考えられる。
信康と五徳が不和になった経緯について、もっとも真実味のある内容は、「岡崎東泉記」にみえているものになる。そこには、信康が五徳に、築山殿に楊枝を取るよう指示したが、五徳はそれを無視したため、信康は五徳をなじり、五徳はそれに腹を立てたことが記されている。
これは一見すると、他愛もない夫婦喧嘩とも思えるが、信康と五徳では、五徳のほうが政治的地位は上であったから、それはすぐれて政治問題に転化しえた。信康はそうした五徳との関係を蔑ろにしたことになる。信康がのちに、信長を尊重していない、といわれるようになっているのは、こうしたことを指しているのかもしれない。